2007年12月26日水曜日

■大江健三郎と『沖縄ノート』


Re:「沖縄ノート」と、その後 2007.11.9大阪地裁、大江健三郎証人陳述書より

 私は一九六五年(昭和四十年)文藝春秋新社の主催による講演会で、二人の小説家とともに、沖縄本島、石垣島に旅行しました。この旅行に先立って沖縄について学習しましたが、自分の沖縄についての知識、認識が浅薄であることをしみじみ感じました。そこで私ひとり沖縄に残り、現地の出版社から出ている沖縄関係書を収集し、また沖縄の知識人の方たちへのインタヴィユーを行いました。『沖縄ノート』の構成が示していますように、私は沖縄の歴史、文化史、近代・現代の沖縄の知識人の著作を集めました。沖縄戦についての書物を収集することも主な目標でしたが、数多く見いだすことはできませんでした。

 この際に収集を始めた沖縄関係書の多くが、のちの『沖縄ノート』を執筆する基本資料となりました。またこの際に知り合った、ジャーナリスト牧港篤三氏、新川明氏、研究者外間守善氏、大田昌秀氏、東江平之氏、そして劇団「創造」の若い人たちから学び、語り合ったことが、その後の私の沖縄への基本態度を作りました。とくに沖縄文化史について豊かな見識を持っていられた、沖縄タイムス社の牧港篤三氏、戦後の沖縄史を現場から語られる新川明氏に多くを教わりました。

 そして六月、私は自分にとって初めての沖縄についてのエッセイ「沖縄の戦後世代」を発表しました。タイトルが示すように、私は本土で憲法の基本的人権と平和主義の体制に生きることを表現の主題にしてきた自分が、アメリカ軍政下の沖縄と、そこにある巨大基地について、よく考えることをしなかったことを反省しました。それに始まって、私は沖縄を訪れることを重ね、さきの沖縄文献に学んで、エッセイを書き続けました。

 本土での、沖縄への施政権返還の運動にもつながりを持ちましたが、私と同世代の活動家、古堅宗憲氏の事故死は大きいショックをもたらしました。古堅氏を悼む文章を冒頭において、私は『沖縄ノート』を雑誌「世界」に連載し、一九七〇年(昭和四十五年)岩波新書として刊行しました。

 私はこの本の後も、一九七二年(昭和四十七年)刊行のエッセイ集『鯨の死滅する日』、一九八一年(昭和五十六年)『沖縄経験』、二〇〇一年(平成十三年)『言い難き嘆きもて』において、『沖縄ノート』に続く私の考察を書き続けてきました。とくに最後のものは、『沖縄ノート』の三十年後に沖縄に滞在して「朝日新聞」に連載した『沖縄の「魂」から』をふくんでいます。

 この裁判を契機に、多様なレベルから『沖縄ノート』に向けて発せられた問いに答えたいと思います。
(つづく)

一九六五年(昭和四十年)文藝春秋新社の主催による講演会
一九六五年(昭和四十年)六月、エッセイ「沖縄の戦後世代」
一九六九年 『沖縄ノート』を雑誌「世界」に連載
一九七〇年(昭和四十五年)岩波新書『沖縄ノート』
一九七二年(昭和四十七年)刊行エッセイ集『鯨の死滅する日』
一九八一年(昭和五十六年)『沖縄経験』
二〇〇一年(平成十三年)『言い難き嘆きもて』(含む『沖縄の「魂」から』)

http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu.html#tokusyu
http://d.hatena.ne.jp/ni0615/20071221
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/897.html

2007年12月23日日曜日

■太田良博の曽野綾子『ある神話の背景』批判


http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060908/oota01

「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(1)(太田良博・沖縄タイムス1985年4月8日掲載)


はじめに
沖縄戦でいつも話題になる事件の一つに渡嘉敷島の集団自決と住民虐殺がある。
この事件について作家の曽野綾子氏は『ある神話の背景』のなかで、当時渡嘉敷島の指揮官であった赤松嘉次大尉が「完璧な悪玉にされている。赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった」と述べる。その神話の源になっているのが『鉄の暴風』のなかの赤松に関する記述だとしてその赤松神話を突き崩すために書かれたのが『ある神話の背景』である。
曽野氏は、沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』を、戦後、沖縄住民によって書かれた沖縄戦記録の原典と見ているが、その中の第二章「悲劇の離島」の第一項
「集団自決」が、『ある神話の背景」で問題とされている箇所である。
実は、その部分は、当時、沖縄タイムス社の記者だった私が執筆したもので、いわば〈赤松神話〉の作り主は私だった、ということになる。そして、赤松神話は『ある神話の背景』によって突き崩されたとする見方が、沖縄の戦記作家たちの間に出てきている。
『鉄の暴風』のなかの=集団自決=の項は、伝聞証拠によって書かれている、赤松の自決命令は事実に反するとする『ある神話の背景』の主張に同調する意見である。もちろんが『ある神話の背景』をそのままみとめているわけではない。手きびしい批判をくわえながらも、曽野氏が指摘した集団自決に関する事実関係については、曽野説を支持し、『鉄の暴風』の記述は訂正を迫られているとしている。

仲程氏の指摘
まずその一例として仲程昌徳氏の『沖縄の戦記』がある。それには『ある神話の背景』の重要な箇所が次のように引用されている。
「太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった」との曽野氏の文章を引用した上で、仲程氏はつぎのように述べる。
〈ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつき崩していくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚(かんぷ)なきまでにつき崩されて、「命令」説はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改訂をせまられたのである〉としている。さらにまた、仲程氏はつぎのように書いている。

定説化をおそれる
〈曽野は、そのことに関して「いずれにせよ、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように、新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で固定されたのであった」と記載に対する重要な指摘をする〉
右のように、『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録が、直接の体験者でない者からの伝聞証拠によって書かれたというのが『ある神話の背景』の論理展開の上でのもっとも重要な土台になっており、それが、そのまま信じこまれているのである。
この「伝聞証拠説」に関する事実関係を明らかにしなければ、曽野氏の見解が、そのまま定説化するおそれがあるので、伝聞証拠で「赤松神話」をつくったとされている私としては、このさい、裏史の証言台に立たざるをえない。すなわち、『鉄の暴風』の問題の箇所が決して伝聞証拠にもとづく記述でないことを立証するために----。



   ◇   ◇
おおた りょうはく氏 著述業、1918年=大正7年=那覇市生まれ。早稲田大学政経学部中退、沖縄タイムス記者、琉球大学図書館司書、琉球放送局ニュース編集長、琉球新報資料室長。著書『異説沖縄史』『沖縄にきた明治の人物群像』ほか




■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」2回目

赤松大尉の暴状
まず、曽野綾子氏の「伝聞情報説」が事実に反することを立証するために、事のいきさつをのべておく。『鉄の暴走』の渡嘉敷島に関する話は、だれから聞いて取材したかと曽野氏に聞かれたとき、私は、はっきり覚えてないと答えたのである。事実、そのときは、確かな記憶がなかったのである。ただ、はっきり覚えていることは、宮平栄治氏と山城安次郎氏が沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は「赤松事件」を知ったのである。
宮平、山城の両氏は、曽野氏が言うように「新聞社がやっと那覇で捕えることのできた 証言者 」ではなく、向こうからやってきた 情報提供者 であって、「それでは調べよう」と私は答えたにすぎない。そのとき、私は二人を単なる情報提供者と見ていたのだから、二人から証言を取ろうなどとは考えなかったし、二人も、そのとき、赤松事件について詳しいことは知っていなかった。
〈二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが…〉と、『ある神話の背景』のなかに書いてあるのは、曽野氏の勝手な解釈である。それで私は、あのとき、なんのメモもしなかったし、二人はそのことを告げただけで帰ったのである。その後、『鉄の暴風』が出版されるまで、いや、出版後も長く彼らとは会っていない。 

宮平氏の復員
宮平氏が沖縄タイムス社に私を訪ねてきたことを、私が特にはっきり覚えているのは、次の事情からである。宮平氏は私の中学の同級だった。そして、宮平氏が、沖縄タイムス社に姿を見せたときは、中学以来はじめての邂逅(かいこう)だったので、とくに印象が強かったのである。
宮平氏(終戦当時、准尉)が復員して、郷里の渡嘉敷島に帰ってみると、集団自決や住民虐殺事件が待っていた。その怒りをもって、宮平氏は、新聞社に私を訪ねてきたのだが私は、その宮平氏から渡嘉敷島の事件について取材したとは、曽野氏に語っていない。だれから取材したかについては、はっきりおぼえていないが、宮平氏から聞いて、はじめて、その事実を知ったことはたしかだ、とあやふやな返事をしたにすぎない。ところが『ある神話の背景』では、宮平・山城の両氏から私が取材したことにされている。 

取材に関する事実
曽野氏は、宮平氏当人とも会って、そのことについて たしかめている ようだ。『ある神話の背景』では、つぎのようなカッコ付きの説明をしている。(もっとも、宮平氏はそのような取材を受けた記憶はないという)と書いてあるのである。そう書きながら曽野氏は、宮平氏から私が取材しているものと断定している。これは自己どう着である。宮平氏本人が私(太田)から取材をうけたことを否定しているのだから、では、太田は、だれから取材したのかということについて、曽野氏は、疑問をもつべきであり、さらに、取材に関する事実をたしかめるべきである。その疑問を残したまま、私自身もはっきりした記憶がないと答えてあったにもかかわらず、曽野氏は、私が宮平氏から取材したことにしてしまっている。そして、『鉄の暴風』の記述は、直接の体験者でない者からの伝聞証拠による記述だと断定しているのである。この断定のあやまちはどこからきているか。
『ある神話の背景』は、集めた資料や情報から帰納的に結論が導かれたものではなく、あらかじめ予断があって、それを立証するための作業であったようにおもわれる。はじめに赤松元大尉に会って、「悪人とは思えない」との印象をうけた。執筆者の私は、だれから取材したかについてあやふやな返事をした。だが、早とちりにとびついたのが〈伝聞証拠説〉である。そこで、宮平氏の被取材否定の高い障壁もカッコ付き説明で簡単にとびこえてしまったのである。でなければ書けなかった『ある神話の背景』の論理をささえる土台は、その点で、不安定なものとなる。
(太字は原文では傍点表記)


■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載3回目。

実は『鉄の暴風』は伝聞証拠によって書かれたものではないのである。それを明らかにする前に一言ことわっておきたいことがある。私は、曽野綾子氏に、取材した相手をはっきりおぼえていないと答えた。事実、そのときは、そうであった。取材相手をおぼえていないというのは、取材者としては、うかつのように聞こえるかもしれないが、それにはそれなりの理由があった。 

記録は取材の一部
一つの理由は、『鉄の暴風』を書くに当たっては、あまりにたくさんの人と会ったので、話を聞いた、それらの人たちがいちいちだれであったか、おぼえていないということである。一つの座談会に、多いときは二十人近くも集まる。座談会だけでもいくらやったかわからない。それも沖縄戦全般にわたっての取材で、渡嘉敷島の記録は、そのごく一部である。取材期間三ヵ月、まったく突貫工事である。それに『鉄の暴風』に記録として採用したのは、これまた取材の一部であり、記録されなかった証言者のものもふくめると、いちいちおぼえられないほどの人たちと会っている。
『鉄の暴風』は、証言集ではなく、沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため、証言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかった。 

立体的証言を信用
もう一つの理由は、取材のやり方である。『鉄の暴風』の執筆者は、牧港篤三記者と私の二人であったが、普通、ルポ・ライターがやるように、あるいは新聞記者が新聞記事を取材するように、私たち執筆者が任意に、あるいは主意的に取材相手を選択して取材したのではなく、話を聞くために人を集めるにあたっては、大体において、新聞社(沖縄タイムス)がお膳立てをしたのである。私たちは、社が集めてくれた人たちの話を記録して、それを文章化する作業につぎつぎと追われていた。
証言者の名をいちいちおぼえていないのは、そういう事情にもよるが、曽野氏から渡嘉敷島に関する取材相手を聞かれたときは、『鉄の暴風』の執筆からすでに二十数年もたっていたのである。
『鉄の暴風』で証言者の名前をいちいち記録しなかったのも、理由はほかにもあるが、そのときの証言者たちの一つの事件に対する複数の立体的証言を私たちが信用していたからである。生死の境をくぐってきたばかりの人たちの証言として重くみたからであり、沖縄戦の体験は、沖縄住民の歴史的な共有財産(注:原文は傍点)であると考えたからである。
渡嘉敷島に関する記録も、社が直接体験者を集めて記録したものである。記録の場所は那覇市内のある旅館の一室であった。その旅館は、現在の国映館の筋向いの奥まった所にあったようにおぼえている。このことを、『ある神話の背景』が出たあと、『鉄の暴風』を読み返していくうちに思い出したのである。

古波蔵氏も出席
新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない。あのとき旅館に証言者を集めたのは、沖縄タイムス社の専務だった座安盛徳氏(故人)だった。
当時、座安氏は、糸満に居住していて、その対岸の渡嘉敷島の関係者を集めるのに有利な立場にあった。そのとき、例の旅館に集まった人たちが誰々であったか、確かな記憶はないが、その中に、戦争中の渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏がいたことをようやく思い出した。古波蔵氏は、集団自決の現場にいた人である。
古波蔵氏とは、その後も二回ほど会っている。同氏は、姓を「米田」に改め、那覇の泊港の船舶関係の事務所にいた。その事務所に、私はいくつかの事実を確かめるために訪ねて行ったのである。この再度の訪問で、私が知りえた事実のなかには『鉄の暴風』に記録されなかったものもある。『ある神話の背景』のなかの他の箇所について反ばくできる材料であるが、伝聞証拠説に関する本筋から外れるので、ここでは割愛することにする。
戦後二十数年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後まもなく、戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる。



■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目

体験者の証言記録
『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。
直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。
『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録のなかで、具体的に名前が出てくるのは、住民の生存者では、当時の「古波蔵村長」と「渡嘉敷国民学校の宇久眞成校長」の二人だけである。『鉄の暴風』の問題の箇所の文脈からみても、その記録のなかに、すくなくとも、この二人の証言がはいっていることは察知できるはずだが、どういうわけか、ほかの面では、いろんな資料を鋭く読みとっている曽野氏が、この渡嘉敷島の記録が、伝聞証拠によるものか、直接体験者の証言によるものかという判断では、その目は曇ってしまっている。『鉄の暴風』のなかの記録が伝聞証拠によるものだとの前提が欲しかったからである。

宇久校長宅で取材
宇久眞成氏は、渡嘉敷島が戦場となった当時、国民学校の校長として、軍と住民の間にはさまれて苦しい立場に立たされた人である。『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録の末尾に出てくる、赤松大尉とその部下が米軍に降伏する場面は、宇久氏から直接聞いた話で、宇久氏は、その降伏式に立ち会っていたのである。その話は、私が単独で、宇久氏の家で取材した。
宇久家は、私が幼少のときからの隣家で、宇久氏の子供たちと私は幼なじみの間柄だったし、私が終戦の翌日、ジャワから復員したときも、一時、大分県に疎開していた宇久氏の留守家族の所に仮住まいし、その年十一月、沖縄に帰還するときも、宇久氏の家族の一員ということにしてもらって、いっしょに帰ったのであり、現在も、親族以上の交際を続けている。
宇久家は教育一家であり、長男と長女は定年で教職を退いているが、二男はいま高知女子大の先生である。宇久眞成氏(故人)は誠実な人柄であった。その宇久氏に、渡嘉敷島での体験を聞き、いろいろたしかめた上で、『鉄の暴風』のある記録を書いたのである。あのとき、口数の少ない宇久氏は、低い声でしみじみとした口調でつぶやいた。

「兵隊はこわい」----。
宇久氏が言う兵隊とは、赤松大尉と、その部下たちのことである。

記述改訂必要なし
これで、『鉄の暴風』のなかの渡嘉敷島に関する記述が、伝聞証拠によるものでなく、ほんとうの体験者からの取材であることをことわっておく。
伝聞証拠説で、『鉄の暴風』にある渡嘉敷島の記事はアテにならないものだという印象を与えた上で、『ある神話の背景』の論理は構築されているが、『鉄の暴風』の渡嘉敷島の記述が伝聞証拠によらない、実体験者の証言によって書かれたものとなると、あとに残るのは、赤松の言葉を信ずるか、渡嘉敷島の住民の言葉を信じるかと言う問題である。
私は赤松の言葉を信用しない。したがって、赤松証言に重きをおいて書かれた『ある神話の背景』を信ずるわけにはいかない。渡嘉敷島の住民の証言に重きをおいた『鉄の暴風』の記述は改訂する必要はないと考えている。
赤松はたしかな証拠もなく住民を処刑しているが、彼の言葉を信用して、彼のために全面弁護を試みている『ある神話の背景』よりも、戦争の被害者である渡嘉敷島の住民のなまなましい体験をもとに書いた『鉄の暴風』のなかの“渡嘉敷敗戦記”が信ずるに足るものである。同戦記は証言による記録として書かれたが、『ある神話の背景』は赤松弁護の意図で書かれている。


■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載5回目

『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録は、伝聞証拠によるもので、そのまま信ずることはできないという前提で、『ある神話の背景』は、集団自決の問題をもち出す。
渡嘉敷島住民の集団自決に関し、赤松大尉は命令を下したおぼえはないという。この“赤松証言”に曽野綾子は重点を置いている。しかし、その言葉の信憑(ぴょう)性をどう検証できるだろうか。もし、これが検証できないとすれば、『鉄の暴風』の記述を崩す根拠とはならないわけだが、『ある神話の背景』で、「赤松証言」の客観的真実性が証明されてはいない。たとえ赤松の命令があったとしても、赤松本人が「私が命令した」というはずはないのである。自分に不利な証言となるからである。命令は、あったとしても、おそらく口頭命令であったはずで、そうであれば、「命令された」「いや、命令しなかった」と、結局は水掛け論に終わるだけである。

共犯者の立場
この命令説の真相を知っていると思われる人物が二人いる。一人は、赤松の副官であった知念少尉であり、一人は赤松と住民の間に立って連絡係の役目をつとめた駐在巡査安里喜順氏である。この二人とも、『ある神話の背景』のなかで真相を語っているとは思えない。知念は赤松と共犯者の立場にあり、安里は自決命令を伝えたなどとは言い難いので、「自決命令」を否定するほうが有利なのである。
集団自決命令の有無をうんぬんする場合、物的な状況証拠となるのが、あのとき住民の手にわたった手りゅう弾で、それがなぜ住民の手に渡ったかということが問題である。『ある神話の背景』によると、手りゅう弾が住民の手に渡ったのは、防衛隊員が勝手に渡したのであって、「自分はあずかり知らぬ」といったような赤松の談話を載せてあるが、手りゅう弾は、戦力を構成する重要な兵器の一つであって、その取り扱いについては軍の指揮官が責任を負うべきものである。手りゅう弾が住民に渡されて、その手りゅう弾で、住民は集団自決を行っているのだ。その手りゅう弾は、住民の集団自決を結果するような状況をつくり出しているのだ。 

武器管理の常識
昭和二十年三月二十五日、米艦船は慶良間列島に激しい砲撃を加え、翌二十六日、米軍の一部が渡嘉敷島に上陸、二十八日に集団自決が行われている。最初、陣地の近くに集まった住民たちが、陣地近くの恩納河原に追いやられたとき、米軍の迫撃砲の攻撃をうけて、住民たちは死と隣り合わせの状況にあったことは確かだが、それだけが集団自決を誘発したとは思えない。それを誘発したのは手りゅう弾である。切迫した状況のなかで、手りゅう弾五十二発が住民に渡されたのだが、そのことがいちばん重要な意味をもっている。
これだけの手りゅう弾は、装備劣悪な赤松隊にとって、かなりの比重をもつ火力であったはずである。赤松元大尉は、手りゅう弾は、防衛隊員が勝手に住民に渡したのであって、自分は知らぬと言っていたようだが、防衛隊員が、どういう理由で、自分の意思で、同じ島の住民である非戦闘員に手りゅう弾を渡すのか、その動機や理由が理解できないし、防衛隊員も、また、大切な武器である手りゅう弾を上官の許可なく他人に渡したりすると、軍規上、厳しい処罰を受けるおそれがあることを知らなかったはずはないのである。
武器の取り扱いについては防衛隊員も厳格な注意を受けていたはずで、軍隊の指揮官が武器の取り扱いについての注意もなしに武器をあたえることは考えられないのである。
手りゅう弾が、防衛隊員を通じて住民に渡されたことについては、軍の同意、許可、あるいは命令があったとしかおもえない。平時、ピストルの不当所持をさえ警察は血眼になって摘発する。敵前での手りゅう弾のもつ意味は、その比ではない。手りゅう弾は防衛隊員が勝手に渡したのだ、おれは知らぬ、と赤松が言ったとすれば、これは軍隊の常識からみて、まったくのでたらめとしか言いようがない。そんなはずはないのである。



■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載6回目

赤松大尉の言葉
赤松大尉の命令または暗黙の許可がなければ、手りゅう弾は住民の手に渡らなかったと考えるのが妥当である。それ以外のことは考えられない。
曽野綾子氏は軍隊の組織を知らないから単純に赤松の言葉を信ずるのである。軍の指揮官は、武器の所在と実数を確実に掌握していなければならない。武器の取り扱いについては、指揮官の命令(注:原文傍点)が絶対に必要である。防衛隊員が、指揮官の命令がないのに勝手に武器を処分することは絶対に許されない行為である。それがわかったら、それこそ大変なことになる。敵前歩哨が居眠りをするだけで、死刑、ときめられている陸軍刑法のなかで、軍の生命である武器を指揮官の命令なくして処分することが何を意味するか、容易に理解できることである。防衛隊員を通じて手りゅう弾が住民に渡された事実を、赤松が知らなかったはずはない。「知らなかった」とは白々しい言葉である。
あの状況の中で、住民の手に手りゅう弾が渡ったことは、なにを意味するか。「死」を目前にしての手りゅう弾は、心理的に「死」を誘発する「物」だったのである。それに、手りゅう弾は、住民が求めたものでなく、あたえられた(注:原文傍点)「物」だった。 

追加された手榴弾
そして、そのあたえられた数にも問題がある。渡嘉敷島の集団自決者の数は、『鉄の暴風』では三百三十六人、沖縄タイムス社刊の沖縄大百科事典では三百二十九人となっている。だが、曽野氏は、その数を非常に少なく見積もろうとしている。そのため地形を説明したり、わずかの自決者しか目撃しなかったという兵隊の証言を引き合いに出す。二十人や三十人の自決なら手りゅう弾は四発か五発あればよい。何百人も自決したはずがないと曽野氏は疑っているが、住民に渡された手りゅう弾は五十二発である。一発の手りゅう弾が十人の自決用としても、この数は数百人分に当たる。
しかも、手りゅう弾の渡され方にも問題がある。自決用として住民に渡された手りゅう弾は、最初、三十二発だったが、さらに、二十発増加されたという。この「追加」は何を意味するか。最初の三十二発では足らないということで追加されたという。「足りない」と判断したのはだれかということになる。個々の防衛隊員が任意に判断したのか。個々の防衛隊員が勝手に渡すなら、まず、自分用の一個か、多くて二個である。防衛隊員が勝手に渡したのであれば、住民に渡された手りゅう弾全部の実数を個々の防衛隊員が知るはずがない。したがって、三十二発では足りないと判断したのは防衛隊員ではないはずだ。 

ある統一した意志
防衛隊員が軍の掌握下から完全に離れておれば、個々任意に渡したとも考えられるが、あのとき防衛隊員は軍の完全な掌握下にあったのである。集団自決の時期は、米軍上陸の直後であり、小さい島では軍の統制から全く離れることはできなかった。防衛隊員は軍に強くひきつけられていたのだ。防衛隊員が勝手に手りゅう弾を住民に渡したなどとは考えられない。また、集団自決直前、住民は、赤松の陣地付近に集合させられている。住民が勝手に集まってきたのだと赤松は説明しているが、当時の状況から考えてありえないことである。十数人の住民が偶然、その陣地付近にやってきたというなら、そういうこともありうるかもしれないが、この場合は、何百人という住民が、それぞれのかくれていた場所から出てきて集合しているのである。任意に集まるはずがない。かり出されたのである。
集団自決の直前に、住民の集結という事実があった。ある統一した意志が働かなければ、あの状況の中で、軍陣地に多くの住民が集結することはおこりえない。集団自決は、この「住民集結」という状況によって準備されたのである。
米軍上陸、赤松隊の陣地への住民の集結、そして手りゅう弾が住民の手に渡り、その直後、集団自決がおこった。これら一連の事実関係は見逃すことができない。
陣地付近への住民集結には、ある強い意志が働いていたと私は判断する。


■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載7回目

初め壕や洞穴に
米軍上陸と同時に住民は追われるように陣地付近に逃げてきたと『ある神話の背景』では説明する。砲撃と米軍上陸、この事実に直面した住民たちはとっさに、それぞれ安全とおもわれる場所、つまり壕や洞穴にかくれたようだ。それが当然である。いきなり猛攻をうけたときの反射的な初動である。『鉄の暴風』には「住民はいち早く各部落の待避壕に避難し…」と書いたが、実際はあわてふためいた本能的な行動だったと思う。そして、住民たちは各個に孤立し、そこには統一された意思はなかった。軍の意思により駐在巡査がかり集めたというのが真相であろう。その理由は「住民は捕虜になるおそれがある。軍が保護してやる」というのである。
米軍上陸が三月二十六日で、その翌日、赤松隊は西山A高地に陣地を移動している。その陣地の位置がまた問題である。赤松隊長自身、その移動先の陣地の場所を最初は知っていなかったと『ある神話の背景』に書かれている。壕や洞穴に身をひそめていた住民たちが、赤松隊がどこに移動したか知るはずがない。ところが、住民が新陣地である西山A高地の赤松隊の陣地付近に集まってきたのは、赤松隊が陣地をそこに移動したその当日である。住民集結には誘導者がいたのだ。軍の意思が働いていたのだ。 

安里巡査が伝達
住民は西山A高地のことは知っていても、そこに赤松隊が移動した事実を知るには、移動の事実の伝達者がいなければならぬ。その伝達者は安里巡査以外には考えられない。彼は軍と住民の連絡の立場にあったからである。赤松隊の説明のように、多くの住民が砲弾に追われて逃げこんだというのは、移動した陣地の所在が住民にとって不明の状態ではありえず、偶然がいくつもかさならなければ起こりえないことである。また、集団自決は、軍の玉砕を信じて決行されたものにちがいない。軍が戦後も生きのびて部隊降伏するとわかっておれば、集団自決は行われなかったはずだ。
住民の自決をうながした自決前日の将校会議についての『鉄の暴風』の記述を曽野氏は、まったくの虚構としてしりぞけている。『ある神話の背景』のなかにつぎの言葉がある。 

曽野氏こそ虚構
〈ただ神話として『鉄の暴風』に描かれた将校会議の場面は実に文学的によく書けた情景と言わねばならない。しかし、これは多かれ少なかれどの作家にも共通の問題だと思うが、文章を書く者にとっての苦しみは、現実は常に語り伝えられたり、書き残されたものほど、明確でもなく、劇的でもないということである。言葉を換えていえば、現実が常に歯ぎれわるく、混とんとしているからこそ、創作というものは、そこに架空世界を鮮やかに作る余地があるのである。しかし、そのようなことが許され得るのは、虚構の世界においてだけであろう。歴史にそのように簡単に形をつけてしまうことは、だれにも許されないことである〉。
よくかけた文章とはむしろ曽野氏のこの文章のことで、これでとどめをさしたつもりかも知れないが、あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない。将校会議はなかったということを証明するために、それをおこなう場所さえなかったと曽野氏は説明する。将校会議などやろうとおもえばどこでもできる。陣地の設備など問題ではない。
陣地になんの設備もなかったというのもおかしい。通常、陣地の移動は設備のある場所を選ぶ。「西山A高地」は軍隊用語であり、陣地名とおもわれる。渡嘉敷島には赤松隊がくる前に設営隊もおった。西山A高地は要塞の場所らしいが、その場所に、その翌年(前年の間違いでは?)からきていた設営隊や赤松隊は、そこに陣地もつくらずに何をしていたのだろう。しかも、西山A高地を“複廓陣地”とよんでいる。複廓陣地とは高度の防御陣地のことである。

■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載8回目

信頼どこにおくか
将校会議があったかなったか、赤松隊の陣地がどうだったかということは、付帯的な問題にすぎない。『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものであり、また、なかには創作的な記述があることを証明するためにそれらは持ち出されたものだが、『鉄の暴風』の記述がすべて実体験者の証言によるものであり、記述者の創作は介入していないことを言明することで答えとしたい。あとは、赤松側の言葉を信用するか、住民側の証言に信頼を置くかの選択が残されるだけである。
ありもしない「赤松神話」を崩すべく、曽野綾子氏は、新しい神話を創造しているにすぎない。そのやり方は手がこんでいる。『鉄の暴風』だけでなく渡嘉敷島に関するほかの戦記もすべて信用できないとする。なぜなら、それらの戦記にも『鉄の暴風』とおなじようなことが書かれているからで、それらすべてを否定しないと、赤松弁護の立論ができないのである。
沖縄側の渡嘉敷戦記の全面否定は、あとで曽野氏がいちばん信用できるとする赤松隊の陣中日誌なるものを持ち出すための伏線となっている。『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が、伝聞証拠によって書かれたとする判断をふまえて、曽野氏はつぎのように推理する。
曽野氏は、渡嘉敷島に関する三つの記録をあげている。沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』、渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』、渡嘉敷村が出した『渡嘉敷島における戦争の様相』の三つである。そして、この三つの戦記は、そのうちのどれかを模写したような文章の酷似が随所にある、と曽野氏は指摘する。結論を言えば他の二つの戦記は『鉄の暴風』のひき写しであるというのである。 

「事実内容」の問題
『鉄の暴風』の文章を、他の二つの戦記がまねたようだという判断から、事実内容までもほとんど『鉄の暴風』の受け売りだとし、『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が信用できないので、その文章をまねて書かれた他の二つの戦記の事実内容まで疑わしいとする推理だが、この推理はおかしい。渡嘉敷村遺族会編の戦記も渡嘉敷村編の戦記も、直接の体験者たちの証言または編集によってまとめられたものであることは間違いない。直接の体験者たちによってまとめられたものが、いくぶん文章をまねることはともかく、事実内容まで、伝聞証拠によって書かれたとされる『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記をまねるということがありうるだろうか。
この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである。三つの資料は、いずれも直接体験者の証言に基づくものであって、直接体験者でない者からの伝聞証拠によって三つの記録の事実内容が共通性をもたされているのではないことはあきらかである。

私製の「陣中日誌」
曽野氏が最も信用できる資料として赤松弁護の道具に使っている赤松隊の「陣中日誌」なるものは、ほんとの「陣中日誌」ではない。軍隊では、作戦要務令で規定された陣中日誌を「陣中日誌」というのだが、赤松隊の陣中日誌なるものは、戦後まとめられた(記述の年月日がある)もので、「私製陣中日誌」であることがわかった。しかも自画自賛と自己弁護の色合の強いもので、客観的資料として信用しがたいものである。
現地側の戦記資料はすべて否定し、赤松隊のこの「私製陣中日誌」に最大の信を置いて書かれたのが『ある神話の背景』である。赤松隊の「私製陣中日誌」と曽野氏の『ある神話の背景』とは、書かれた意図に似通うものがあり、赤松隊弁護の意図で重なり合っているが、『ある神話の背景』があるていど公平を装っている点だけがちがっている。


■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載9回目

任務放棄に失望
赤松嘉次大尉の証言は信用しがたい。その一例をあげておく。赤松隊の任務は舟艇による特攻であった。だが、赤松隊は、渡嘉敷島に米軍が来攻したとき、みずから舟艇を破壊して、米艦船に対する特攻という本来の任務を放棄してしまった。
この任務放棄に関し、赤松は、慶良間巡視中の船舶隊長大町大佐の命令があったからだとしている。大町大佐は慶良間近海で戦死しているので死人に口なしである。大町大佐がわざわざ特攻中止を命ずるために慶良間巡視に出かけたとは思えないが、この出撃中止が軍司令部の意向ではなかったことだけはっきりしている。
沖縄守備第三十二軍の高級参謀であった八原博道大佐の手記『沖縄決戦』によると、慶良間の海上特攻に一縷の望みをかけていたことがわかる。「好機断固として海上に出撃すべきである。願わくば出撃してくれと祈る」云々の言葉がある(同書144ページ)。現地からの無線連絡で攻撃失敗がわかると、八原参謀は「意志が弱く、不屈不撓あくまで自己の任務目的を遂行せんとする頑張りが足りない」と慶良間の海上特攻隊に失望の色をみせている。 

無電内容も疑問
たとえ大町大佐が出撃中止を命じたとしても、その場合、無電で、首里の軍司令部にその真相をたしかめる方法が赤松大尉には残されていた。慶良間群島に海上特攻を配置させたのは、高級参謀八原大佐だった。また、八原大佐は海上特攻の主任参謀でもあった。特攻の出撃中止が軍司令部の意志を無視しておこなわれたことは同大佐の著書で明らかである。
「出撃不可能」との軍司令部に対する慶良間現地からの無電内容にも疑問がはさまれる。出撃中止の時点で、赤松隊も舟艇も米軍の陸上攻撃をうけていないのである。出撃は、夜間に企画されたもので、米軍による夜間の陸上攻撃は考えられない。渡嘉敷島に対する米軍の攻撃が始まったのは三月二十五日未明、米軍の一部が渡嘉敷島に上陸したのは翌二十六日の未明、すると二十五日夜から翌日未明にかけての夜間は何をしていたのかということになる。赤松隊長が中止させたと『鉄の暴風』には記録されている。また、事実、わざわざ舟艇を自爆させるだけの余裕があったことがすべてを物語っている。ちなみに、沖縄本島周辺の他の海域では、随所で舟艇による果敢な海上特攻が実行されて戦果をあげている事実がある。慶良間の特攻隊の任務放棄はまったくの例外であった。 

住民処刑の例
とにかく、赤松戦隊は、海上特攻という最重要の任務を放棄したからには、軍司令部から見れば、戦略的にも戦術的にも無意味な存在となったのである。その後、この戦隊には、陸上戦闘による戦果がほとんどなく、米軍はなんの損害もうけなかった。赤松隊は無力な島の住民との間にいろいろなトラブルをひき起こしているだけである。
じつは、赤松が、集団自決を命令した、命令しなかったという事件よりも、住民処刑のほうがもっと問題である。集団自決下命問題は、赤松が下命しなかったといえば、それで不確定性をもつ性格のものだが、住民処刑は否定できない事実である。曽野氏は、不確定性をもつ集団自決を前面に出して、一種の煙幕を張り、そのあとで、否定できない事実である住民処刑については、軍の綱領や軍法などを持ち出して各種の弁護を試みているが、その弁護は別の事実によって支離滅裂となるのである。その事実とは、住民処刑と矛盾する兵隊に対する赤松の処置である。

住民処刑について、二、三の例をあげる。
伊江島出身の若い女性たちが米軍にたのまれて赤松の陣地に行き、降伏勧告文を取りついだために斬首の刑をうけている。また、終戦の日の八月十五日、米軍の投稿勧告分を陣地近くの木の枝に結んで帰ろうとした与那嶺徳と大城牛の二人が捕えられて殺された。しかし、おなじ降伏勧告でも相手が日本の軍人であった場合は、赤松大尉はちがった態度をとっている。『ある神話の背景』の121ページ、122ページをみればわかる。



■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載10回目
終戦直後、日本の中尉と下士官が赤松のところに降伏勧告にきている。しかも、下士官は米軍の服装をしていた。降伏勧告にきた住民がことごとく殺された事実からすれば、相手が軍人であれば、なおさら厳格に対処すべきである。だが、赤松は降伏勧告にきた二人の軍人をおとなしく帰している。

大城訓導は民間人
また、家族に会いに行ったというだけの理由による大城訓導の処刑がある。渡嘉敷国民学校の大城徳安訓導が、島内の別の場所にいた妻にこっそり会いに行ったという理由だけで、縄でしばられて陣地に連行され、斬首(ざんしゅ)されたのである。この事件について、曽野綾子氏は、大城訓導が「招集された正規兵」(曽野氏は、防衛隊員を正規兵と解釈している)だったことをあげて、赤松の処置が「民間人」に対するものでなく、軍律により軍人に対してとられた処置(処刑)で、不当ではなかったと弁護する。
防衛隊員が「正規の軍人」であったとする解釈には同意できないが、大城訓導は、正式な防衛隊員でもなかった。防衛召集は満十七歳以上、四十五歳までの男子が対象で、武器をあたえられず、飛行場建設や陣地構築に使役され、戦場では弾丸運び、まったくの補助兵力であった。召集の時期は、昭和十九年十月から十二月までと、昭和二十年一月から三月までの二回だが、この二回の防衛召集で大城訓導は召集を受けていない。
渡嘉敷国民学校の校長だった宇久眞成氏から私が直接きいた話によると、大城訓導は、当時、教頭であり、年齢も四十九歳、防衛召集年齢の上限(四十五歳)をこえていた。(小学校教員は、普通、防衛召集の対象からはずされていた)。その大城訓導を、赤松大尉が勝手に防衛隊員にしたらしい。これは、甚だしい越権行為であった。召集は国家行為であるからである。大城訓導は、殺されるまで「民間人」であったのだ。

赤松批判で私兵に
なぜ、赤松は勝手に大城訓導を防衛隊員にしたのか、そのことについて、宇久氏は、大城訓導があからさまに赤松隊のやりかたを批判したことに原因があったのだと説明した。赤松批判が知れて強制的に赤松大尉個人の「私兵」とされたようである。大城訓導は、親子ほど年齢差のある若い兵隊たちから相当いじめられたらしく、苦役と精神的苦痛にたえられなかったが、妊娠中の妻(おなじく教員)のことが心配で、無断で妻に会いに行き、陣地を勝手に離れたとして殺されたのである。 

戦争体験への暴挙
ところが、赤松隊から隊員である二人の兵隊が逃亡するという事件があった。このとき、部下の兵隊二人の逃亡を赤松は見逃している(『ある神話の背景』230ページ)。この兵隊逃亡に対して、赤松大尉は「去る者を追うのはよそう」と言った、というのである。部下の兵(身内)に対しては、なんという「寛大な処置」であろう。指揮官が部下兵の逃亡を見逃すのは「逃亡幇助」であって、軍律上、許せない行為である。兵隊の「敵前逃亡」は陸軍刑法では死刑である。
住民処刑は、たいてい「通敵のおそれがある」という理由によってなされている。住民をスパイ視していたわけだ。たとえ住民をスパイとして利用することにしても、敵である米軍よりも味方である赤松隊のほうが、言葉も通じるし、同国民でもあるという立場からみて、はるかに有利な条件を備えていたはずで、住民は、敵情をさぐらせるのに好都合で、その意味では、補助戦力に転化できたはずだが、それはあくまで赤松隊に敵攻撃の意志があった場合にかぎられる。その意志がなければ、住民は、逆に、陣地の所在を敵に通報するのではないかという危惧の対象にしかならない。赤松隊は、まさに、その危惧の目で住民を見ていたのである。
この事実は、赤松が攻撃の意志を全く失い、自己陣地の暴露と敵の攻撃だけを極度に恐れていたことを雄弁に物語っている。古波蔵樽(たる)という男が家族全員を失い、悲嘆にくれて山中をさまよっているところを、スパイの恐れがあると言って、高橋伍長が軍刀で斬殺したという事件もある。
沖縄戦に「神話」などというものはない。沖縄戦は今日的な出来事であるし、沖縄にいたすべての住民が自分の目で見て体験したことである。『鉄の暴風』は、まさにこの体験の記録である。曽野氏の『ある神話の背景』は、沖縄住民の戦争体験の重さを甘くみた暴挙であり、とくに住民処刑についての全面的な赤松弁護はまったく軽率である。
(おわり)




■太田良博の曽野綾子への再批判(沖縄タイムス)


http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/5.html
■「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(1)


手榴弾への疑問
曽野綾子さんの「お答え」を呼んで、一面、非常に満足している。渡嘉敷島の赤松問題については、だいたい白黒がはっきりしたと思うからである。というのは、私が出した、いちばん重要な問題――手榴弾が、なぜ、住民に渡されたか、同一行動(降伏勧告、逃亡)について、住民は殺され、兵隊は見逃されている事実――に関しては、なんの回答もないからである。この論争は、これでケリがついたようなものだ。他の面では、曽野さんの「お答え」には、がっかりした。もっと期待していたが、その調子が低いのには拍子抜けである。曽野さんの「お答え」にたいする答えは、あと回しにする。
まず、根本的な問題、手榴弾が住民に渡されたこと、その他について補足説明、または言及しておきたい。

▼弾薬類は兵隊の手にかんたんに渡るものではない。昭和十一年の二・二六事件で、兵は夜間演習と称して出動させることができるが、叛乱将校たちにとって最後の難問は、兵器庫の銃弾をどうして持ち出すかということだった。兵器は、中佐、少佐を長とする将校・下士官で構成される兵器委員の管理下にある。ふつう兵器庫の鍵は、兵器委員の下士官が所持している。通常の手段では、兵器委員や連隊長に企画がもれる。結局、二・二六事件の場合は、叛乱軍の少尉ほか数名が、兵器委員の下士官に暴行を加えて鍵をうばった。鍵を奪われた兵器係軍曹は、その直後、責任を感じて自決している。
作戦中は、武器弾薬の処置はさらにうるさい。手榴弾などが住民の手にかんたんに渡るはずがない。赤松隊の隊員たちは、軍律がきびしかったように言っているから、なおさらのこと、武器弾薬の管理も厳格でなければならなかったはずだ。そういう状況を考えると、大量の手榴弾が住民に渡されたということは、ただ事ではないのである。また、手榴弾のようなものは、絶対に信頼できる者でなければ渡せないものである。信頼できないものに渡したら、逆に、自分らのところに投げつけられるおそれもあるからである。
ところで、赤松は住民を信頼していない。どの住民も通敵のおそれがあるとみている。たびたびの住民処刑にそれがあらわれている。それでは、信頼していない島の住民に、なぜ手榴弾を渡したかが問題である。「これで、死ね」というので渡したこと以外のことは考えられないのである。 

一種の無理心中
▼ここで、「集団自決」という言葉について説明しておきたい。『鉄の暴風』の取材当時、渡嘉敷島の人たちはこの言葉を知らなかった。彼らがその言葉を口にするのを聞いたことがなかった。それもそのはず「集団自決」という言葉は私が考えてつけたものである。島の人たちは、当時、「玉砕」「玉砕命令」「玉砕場」などと言っていた。「集団自決」という言葉が定着化した今となって、まずいことをしたと私は思っている。この言葉が、あの事件の解釈をあやまらしているのかも知れないと思うようになったからである。
「集団自決」の「自決」という言葉は、〈自分で勝手に死んだんだ〉という印象をあたえる。そこで、〈住民が自決するのを赤松大尉が命令する筋合いでもない〉という理屈も出てくる。「集団自決」は、一種の「心中」または「無理心中」である。しかし「心中」は、習俗として、沖縄の社会では、なじまないものである。まれではあるが、自殺はある。サイパンで、沖縄の女たちが断崖から飛びこむ記録フィルムを見たことがあるが、あれは「心中」ではない。
壕の中で、赤子の泣き声が敵に聞こえると、わが子を殺した母親の話があるがそれも兵隊から強要されたからである。なかには、それができず、兵隊が赤子の首をしめた。そして、母親は気が変になったという話もある。「無理心中」は、しかも、渡嘉敷島であったような悲惨な方法による殺し合いは、沖縄では、外部からのぬきさしならぬ強制がなければ起こりえないものである。自発的におこなわれるものではない。 

目撃した米兵の証言
渡嘉敷島のあの事件は、じつは「玉砕」だったのだ。「玉砕」は、住民だけで、自発的にやるものではなく、また、やれるものでもない。「玉砕」は、軍が最後の一兵まで戦って死ぬことである。住民だけが玉砕するということはありえない。だが、結果としては、軍(赤松隊)は「玉砕」しなかった。PW(捕虜)になって生還した。軍もいっしょに玉砕するからと手りゅう弾を渡されたと思われる。いま、沖縄タイムスに連載されている米軍記録「沖縄戦日誌」の去る一月二十日の記事によると、あの住民玉砕の現場を目撃した米兵の証言がのっている。現場には日本兵が何人かいたようで、米兵は、その日本兵から射撃をうけている。
どうも、あの玉砕は、軍が強要したにおいがある。資料の発見者で翻訳者の上原正稔氏は、近く渡米して、目撃者をさがすそうである。目撃者の生存をたしかめているらしく、「さがせますか」ときくと、「そんなことわけはないですよ」という返辞だった。



■「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(2)

一日分の弾量で
▼「沖縄方面陸軍作戦」という防衛庁から出た本がある。それに、赤松隊が所持していた銃器弾薬の数量が記載されている。その数量は、赤松大尉あたりが提供した資料にもとづいたものであるはずである。また、たしか、そう書いてあったようにおぼえている。この数量をみて、いまさらのように、ああ、そうだったのかと思った。それは、一日の激戦で射ちつくせるだけの弾量でしかなかった。
その中での、住民に渡された五十何発かの手榴弾のもつ重みもわかった。住民とともに玉砕するだけの弾量しかもっていなかったのだ。それで、住民が玉砕したあと、赤松隊は「持久戦」に転じたというわけである。「持久戦」というのは、それによって、敵に軍事的な損害をあたえるための兵法の一ツの型である。たくさんの米艦船にとり囲まれた小さな渡嘉敷島で、わずかな銃弾しかもたないで、どんな損害を米兵にあたえることができただろうか。兵隊が大量に武器を持っておれば「持久戦」という言葉が使えるかも知れない。
そうでない場合、「持久戦」の「戦」はとって、「持久」とすべきである。そして、「持久」とは、「生命の持久」のことで、事実、その通りの結果になっている。兵器は、住民玉砕、住民処刑、住民威圧に使われたのだ。そして、その兵器は、降伏のとき、全部、米軍に渡している。「持久」の目的が達成されて、不要になったからである。
赤松隊陣中日誌、沖縄方面陸軍作戦、赤松隊員の証言などから降伏状況をみると、赤松大尉が部下の隊員たちより一足さきに降伏していることが、はっきりしている。赤松大尉は昭和二十年八月二十三日に投降し、部下本隊が投降したのは八月二十六日である。難破船の船長が他の船員たちより、さきに救命ボートに乗り移ったようなものである。赤松は降伏のとき、確保してあった缶詰類を米軍にプレゼントしたようだ。「ある神話の背景」をみると、兵隊たちは餓死寸前であったことが強調されている。そうであれば、残った食料は部下の兵隊たちに分けあたえるべきであった。部下の証言によると、ひと足さきに投降した赤松大尉は、米軍からもらったタバコをプカプカふかしていたようだ。 

責任逃れの赤松
▼手榴弾による住民玉砕と伊江島住民の処刑事件に対する赤松大尉の言葉から関連づけて考えられるものがある。米軍にたのまれて、赤松の陣地に降伏勧告に行って殺された伊江島住民は六名、そのうち男三名は、私が処刑を命じた、と赤松は告白している。しかし、女たちは、自決しますと言うから、鈴木少尉が自決幇助(ほうじょ)をしたのだ。つまり、自決するというから自決を助けた(斬首した)にすぎない。処刑したことにはならない、というわけである。赤松は、こんな理屈を言う。
日本の封建社会で、大名が家臣に切腹を命ずることがあった。そのばあい、切腹した者がみずから自決したのだから、命令者に責任はない。切腹したものの自害行為だったと言えるだろうか。
渡嘉敷島住民の自決について、自分に責任はないと赤松は言う。女たちを殺したのは、あれは自決幇助だったという。「住民玉砕」も、伊江島住民の処刑についての言いわけと同じ意味での自決幇助ではなかっただろうか。私は、そいう思っている。玉砕場での住民の阿鼻叫喚の声を聞いて、赤松は「あの声をしずめろ」と兵隊に言ったようだ。住民の断末魔の苦しみの声が、赤松には耳ざわりだったのだろう。苦しんで泣き叫ぶ人たちにいくら声を大にして「静かにしろ」といったってききめがあるはずがない。「あの声をしずめろ」とは、「殺せ」ということである。「ある神話の背景」では、あとで住民の玉砕を知って、赤松は、早まったことをしてくれたと言ったというのである。住民の最後の悲鳴を聞いて、「うるさい」と感じ、自分の「心の不快」を取り除くことしか考えなかった赤松に、住民にたいする思いやりがあったとはおもえない。しかし、話しには矛盾がある。 

住民を保護せず
赤松は、現に、住民の死の叫びを聞いている。だのに、あとで、そのことを知って、うんぬんというのはおかしい。「住民玉砕」の事実は、事前に知っていたはずである。手榴弾は軍から住民の手に渡されたのだから--。まさか手榴弾を米軍に投げつけなさいと言って渡したわけではあるまい。「あの声をしずめろ」(殺せ)という前に、別の言葉で、内容の同じことを言ったはずだ。
赤松隊の住民に対する態度は、〈住民は保護しない〉〈住民は米軍に投降させない〉という態度であった。住民の生きる道は、すべてふさがれていたのだ。それでも、赤松の陣地からはなれたものは助かった。赤松の陣地に接近した者たちだけが「玉砕」せざるをえない状況に追いこまれたのだ。「玉砕」と「住民処刑」は、おなじ理由、通敵のおそれがある。陣地を見たからには、という理由によるものであった。ほかの島民は「玉砕」しなかったのだ。「玉砕」は強制されたものであった。



■「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(3)

「限定した事柄」
曽野綾子さんの「お答え」に答えることにする。まず、曽野さんのジャーナリズム批判から始めよう。「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と私は書いたのである。この文章をよく読んでみたらわかる。この文章の分析はしないことにするが、私は、一つの条件を前提として、限定した事柄について言っているのである。新聞社があやまちをおかすことはないなどとは言っていない。
曽野さんは、この文章にとびついてきた。そして、世の主婦をバカにしたような文言をはさみながら、「太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある」と、見下したようなことを言う。「鉄の暴風」で、私の書いたものが、伝聞証拠によるものだ、と曽野さんが「ある神話の背景」のなかで言うから、そうではないと言っているにすぎないのだ。それだけのことが、どうして、「ジャーナリズムに対して、想像もできない甘い態度」ということになるのか、さっぱりわからない。
私の前述の文章を、別の言葉で、具体的に言えば、新聞は、記者が取材してきたものを、デスクという関門でチェックして編集されるが、その形式が、そのまま「鉄の暴風」の執筆や編集にも移されたということである。執筆が牧港氏と私、監修が豊平良顕氏(当時、常務)、つまり、牧港氏と私は先輩記者の豊平氏に対して、豊平氏は社に対して責任をもつ、つまり、一つの関門があって、私の勝手にはできなかったということである。 

「鉄の暴風」は真実
ここでは、「鉄の暴風」が、曽野さんが言うように伝聞証拠で書かれたものか、そうでないかが重要な論争点である。「鉄の暴風」は伝聞証拠で書かれたものではない、直接体験者から聞いて書いたものだ、と私が言うと、こんどは、「新聞社の集めた直接体験者の証言なるものがあてになるか」と言い出す。子供が駄々をこねるようなことは言わないでほしい。おなじ直接体験者の証言でも、新聞社が集めたもの(「鉄の暴風」は信用できないが、自分が集めたもの(「ある神話の背景」)は信用できるのだ、と言っているのだろうか。
曽野さんは、新聞社がもち出す直接体験者の証言が、いかにアテにならないものかという引用例として、朝日新聞社の「誤報問題」なるものをもち出している。
「極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある」と、曽野さんは書いている。 

毒ガス報道論議
そのことについて、私は、こう思う。朝日の写真を一目見ただけで、それが毒ガスでないことが分かったという「おおかたの戦争体験者」の証言そのものが、怪しい。彼らが、すぐ、毒ガスかどうかが分かるということは、日本軍がたえず毒ガスを使用していたということを意味する。毒ガスはジュネーブ条約で使用を禁止されており、使用したことが分かれば世界中の批難をうける。めったに使えない化学兵器である。戦場で毒ガスを実見したものは戦場体験者でもなかなかいないのではないか。一般兵が知っているのは防毒面の着けかたぐらいのものである。毒ガスというのは、相手が使えば、こちらも、といった“準備秘密兵器”だから、兵一般が毒ガスの知識を持っているわけではない。
特別に「ガス兵」としての訓練をうける者はたしかにいた。実は、何カ月か、私はその「ガス兵」の訓練をうけたことがある。その訓練は、相手からガス攻撃をうけたときの防御措置が主なる目的であった。ほとんど忘れてしまったが、ガスの種類と、その時の空気の状況によっては、煙状のものが高く立ちのぼることがある。それでも白黒写真ではガスかどうか判定はむずかしいのではないか。また、開闊(かいかつ)地でも使えないことはない。早朝など、気流の上下交代とか、空気の密度の関係などで、目には見えないが、地上低く、天井のような空気の層ができ、煙は一定の高さ以上に上昇しないときがある。そういう場合には、ガスが使われる可能性がある。
見方軍隊が前進攻撃する前方にガス弾を射ち込むはずがないというのは、まったくの無知である。そのときは、味方の軍隊には防毒面の着用を命ずるからである。新聞を批判する側の直接体験者の証言なるものも、かならずしもあてにはならない。
朝日新聞が、はじめからガス弾でないと分かっていて、例の写真をかかげたのなら、それは「虚偽の報道」ということになる。だが、知らないで、それをガス弾の写真と信じてのせたのであれば、それは「誤報」である。
たとえ、客観的事実とはちがっていても、報道の真実からはずれているとは思えない。