Re:「沖縄ノート」と、その後 2007.11.9大阪地裁、大江健三郎証人陳述書より
私は一九六五年(昭和四十年)文藝春秋新社の主催による講演会で、二人の小説家とともに、沖縄本島、石垣島に旅行しました。この旅行に先立って沖縄について学習しましたが、自分の沖縄についての知識、認識が浅薄であることをしみじみ感じました。そこで私ひとり沖縄に残り、現地の出版社から出ている沖縄関係書を収集し、また沖縄の知識人の方たちへのインタヴィユーを行いました。『沖縄ノート』の構成が示していますように、私は沖縄の歴史、文化史、近代・現代の沖縄の知識人の著作を集めました。沖縄戦についての書物を収集することも主な目標でしたが、数多く見いだすことはできませんでした。
この際に収集を始めた沖縄関係書の多くが、のちの『沖縄ノート』を執筆する基本資料となりました。またこの際に知り合った、ジャーナリスト牧港篤三氏、新川明氏、研究者外間守善氏、大田昌秀氏、東江平之氏、そして劇団「創造」の若い人たちから学び、語り合ったことが、その後の私の沖縄への基本態度を作りました。とくに沖縄文化史について豊かな見識を持っていられた、沖縄タイムス社の牧港篤三氏、戦後の沖縄史を現場から語られる新川明氏に多くを教わりました。
そして六月、私は自分にとって初めての沖縄についてのエッセイ「沖縄の戦後世代」を発表しました。タイトルが示すように、私は本土で憲法の基本的人権と平和主義の体制に生きることを表現の主題にしてきた自分が、アメリカ軍政下の沖縄と、そこにある巨大基地について、よく考えることをしなかったことを反省しました。それに始まって、私は沖縄を訪れることを重ね、さきの沖縄文献に学んで、エッセイを書き続けました。
本土での、沖縄への施政権返還の運動にもつながりを持ちましたが、私と同世代の活動家、古堅宗憲氏の事故死は大きいショックをもたらしました。古堅氏を悼む文章を冒頭において、私は『沖縄ノート』を雑誌「世界」に連載し、一九七〇年(昭和四十五年)岩波新書として刊行しました。
私はこの本の後も、一九七二年(昭和四十七年)刊行のエッセイ集『鯨の死滅する日』、一九八一年(昭和五十六年)『沖縄経験』、二〇〇一年(平成十三年)『言い難き嘆きもて』において、『沖縄ノート』に続く私の考察を書き続けてきました。とくに最後のものは、『沖縄ノート』の三十年後に沖縄に滞在して「朝日新聞」に連載した『沖縄の「魂」から』をふくんでいます。
この裁判を契機に、多様なレベルから『沖縄ノート』に向けて発せられた問いに答えたいと思います。
(つづく)
一九六五年(昭和四十年)文藝春秋新社の主催による講演会
一九六五年(昭和四十年)六月、エッセイ「沖縄の戦後世代」
一九六九年 『沖縄ノート』を雑誌「世界」に連載
一九七〇年(昭和四十五年)岩波新書『沖縄ノート』
一九七二年(昭和四十七年)刊行エッセイ集『鯨の死滅する日』
一九八一年(昭和五十六年)『沖縄経験』
二〇〇一年(平成十三年)『言い難き嘆きもて』(含む『沖縄の「魂」から』)
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu.html#tokusyu
http://d.hatena.ne.jp/ni0615/20071221
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/897.html
2007年12月26日水曜日
■大江健三郎と『沖縄ノート』
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