2007年12月26日水曜日

■大江健三郎と『沖縄ノート』


Re:「沖縄ノート」と、その後 2007.11.9大阪地裁、大江健三郎証人陳述書より

 私は一九六五年(昭和四十年)文藝春秋新社の主催による講演会で、二人の小説家とともに、沖縄本島、石垣島に旅行しました。この旅行に先立って沖縄について学習しましたが、自分の沖縄についての知識、認識が浅薄であることをしみじみ感じました。そこで私ひとり沖縄に残り、現地の出版社から出ている沖縄関係書を収集し、また沖縄の知識人の方たちへのインタヴィユーを行いました。『沖縄ノート』の構成が示していますように、私は沖縄の歴史、文化史、近代・現代の沖縄の知識人の著作を集めました。沖縄戦についての書物を収集することも主な目標でしたが、数多く見いだすことはできませんでした。

 この際に収集を始めた沖縄関係書の多くが、のちの『沖縄ノート』を執筆する基本資料となりました。またこの際に知り合った、ジャーナリスト牧港篤三氏、新川明氏、研究者外間守善氏、大田昌秀氏、東江平之氏、そして劇団「創造」の若い人たちから学び、語り合ったことが、その後の私の沖縄への基本態度を作りました。とくに沖縄文化史について豊かな見識を持っていられた、沖縄タイムス社の牧港篤三氏、戦後の沖縄史を現場から語られる新川明氏に多くを教わりました。

 そして六月、私は自分にとって初めての沖縄についてのエッセイ「沖縄の戦後世代」を発表しました。タイトルが示すように、私は本土で憲法の基本的人権と平和主義の体制に生きることを表現の主題にしてきた自分が、アメリカ軍政下の沖縄と、そこにある巨大基地について、よく考えることをしなかったことを反省しました。それに始まって、私は沖縄を訪れることを重ね、さきの沖縄文献に学んで、エッセイを書き続けました。

 本土での、沖縄への施政権返還の運動にもつながりを持ちましたが、私と同世代の活動家、古堅宗憲氏の事故死は大きいショックをもたらしました。古堅氏を悼む文章を冒頭において、私は『沖縄ノート』を雑誌「世界」に連載し、一九七〇年(昭和四十五年)岩波新書として刊行しました。

 私はこの本の後も、一九七二年(昭和四十七年)刊行のエッセイ集『鯨の死滅する日』、一九八一年(昭和五十六年)『沖縄経験』、二〇〇一年(平成十三年)『言い難き嘆きもて』において、『沖縄ノート』に続く私の考察を書き続けてきました。とくに最後のものは、『沖縄ノート』の三十年後に沖縄に滞在して「朝日新聞」に連載した『沖縄の「魂」から』をふくんでいます。

 この裁判を契機に、多様なレベルから『沖縄ノート』に向けて発せられた問いに答えたいと思います。
(つづく)

一九六五年(昭和四十年)文藝春秋新社の主催による講演会
一九六五年(昭和四十年)六月、エッセイ「沖縄の戦後世代」
一九六九年 『沖縄ノート』を雑誌「世界」に連載
一九七〇年(昭和四十五年)岩波新書『沖縄ノート』
一九七二年(昭和四十七年)刊行エッセイ集『鯨の死滅する日』
一九八一年(昭和五十六年)『沖縄経験』
二〇〇一年(平成十三年)『言い難き嘆きもて』(含む『沖縄の「魂」から』)

http://www.okinawatimes.co.jp/spe/syudanjiketsu.html#tokusyu
http://d.hatena.ne.jp/ni0615/20071221
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/897.html

2007年12月23日日曜日

■太田良博の曽野綾子『ある神話の背景』批判


http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060908/oota01

「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(1)(太田良博・沖縄タイムス1985年4月8日掲載)


はじめに
沖縄戦でいつも話題になる事件の一つに渡嘉敷島の集団自決と住民虐殺がある。
この事件について作家の曽野綾子氏は『ある神話の背景』のなかで、当時渡嘉敷島の指揮官であった赤松嘉次大尉が「完璧な悪玉にされている。赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった」と述べる。その神話の源になっているのが『鉄の暴風』のなかの赤松に関する記述だとしてその赤松神話を突き崩すために書かれたのが『ある神話の背景』である。
曽野氏は、沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』を、戦後、沖縄住民によって書かれた沖縄戦記録の原典と見ているが、その中の第二章「悲劇の離島」の第一項
「集団自決」が、『ある神話の背景」で問題とされている箇所である。
実は、その部分は、当時、沖縄タイムス社の記者だった私が執筆したもので、いわば〈赤松神話〉の作り主は私だった、ということになる。そして、赤松神話は『ある神話の背景』によって突き崩されたとする見方が、沖縄の戦記作家たちの間に出てきている。
『鉄の暴風』のなかの=集団自決=の項は、伝聞証拠によって書かれている、赤松の自決命令は事実に反するとする『ある神話の背景』の主張に同調する意見である。もちろんが『ある神話の背景』をそのままみとめているわけではない。手きびしい批判をくわえながらも、曽野氏が指摘した集団自決に関する事実関係については、曽野説を支持し、『鉄の暴風』の記述は訂正を迫られているとしている。

仲程氏の指摘
まずその一例として仲程昌徳氏の『沖縄の戦記』がある。それには『ある神話の背景』の重要な箇所が次のように引用されている。
「太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。一人は、当時の座間味の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起こった事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。もちろん、二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった」との曽野氏の文章を引用した上で、仲程氏はつぎのように述べる。
〈ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつき崩していくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚(かんぷ)なきまでにつき崩されて、「命令」説はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改訂をせまられたのである〉としている。さらにまた、仲程氏はつぎのように書いている。

定説化をおそれる
〈曽野は、そのことに関して「いずれにせよ、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように、新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で固定されたのであった」と記載に対する重要な指摘をする〉
右のように、『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録が、直接の体験者でない者からの伝聞証拠によって書かれたというのが『ある神話の背景』の論理展開の上でのもっとも重要な土台になっており、それが、そのまま信じこまれているのである。
この「伝聞証拠説」に関する事実関係を明らかにしなければ、曽野氏の見解が、そのまま定説化するおそれがあるので、伝聞証拠で「赤松神話」をつくったとされている私としては、このさい、裏史の証言台に立たざるをえない。すなわち、『鉄の暴風』の問題の箇所が決して伝聞証拠にもとづく記述でないことを立証するために----。



   ◇   ◇
おおた りょうはく氏 著述業、1918年=大正7年=那覇市生まれ。早稲田大学政経学部中退、沖縄タイムス記者、琉球大学図書館司書、琉球放送局ニュース編集長、琉球新報資料室長。著書『異説沖縄史』『沖縄にきた明治の人物群像』ほか




■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」2回目

赤松大尉の暴状
まず、曽野綾子氏の「伝聞情報説」が事実に反することを立証するために、事のいきさつをのべておく。『鉄の暴走』の渡嘉敷島に関する話は、だれから聞いて取材したかと曽野氏に聞かれたとき、私は、はっきり覚えてないと答えたのである。事実、そのときは、確かな記憶がなかったのである。ただ、はっきり覚えていることは、宮平栄治氏と山城安次郎氏が沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は「赤松事件」を知ったのである。
宮平、山城の両氏は、曽野氏が言うように「新聞社がやっと那覇で捕えることのできた 証言者 」ではなく、向こうからやってきた 情報提供者 であって、「それでは調べよう」と私は答えたにすぎない。そのとき、私は二人を単なる情報提供者と見ていたのだから、二人から証言を取ろうなどとは考えなかったし、二人も、そのとき、赤松事件について詳しいことは知っていなかった。
〈二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが…〉と、『ある神話の背景』のなかに書いてあるのは、曽野氏の勝手な解釈である。それで私は、あのとき、なんのメモもしなかったし、二人はそのことを告げただけで帰ったのである。その後、『鉄の暴風』が出版されるまで、いや、出版後も長く彼らとは会っていない。 

宮平氏の復員
宮平氏が沖縄タイムス社に私を訪ねてきたことを、私が特にはっきり覚えているのは、次の事情からである。宮平氏は私の中学の同級だった。そして、宮平氏が、沖縄タイムス社に姿を見せたときは、中学以来はじめての邂逅(かいこう)だったので、とくに印象が強かったのである。
宮平氏(終戦当時、准尉)が復員して、郷里の渡嘉敷島に帰ってみると、集団自決や住民虐殺事件が待っていた。その怒りをもって、宮平氏は、新聞社に私を訪ねてきたのだが私は、その宮平氏から渡嘉敷島の事件について取材したとは、曽野氏に語っていない。だれから取材したかについては、はっきりおぼえていないが、宮平氏から聞いて、はじめて、その事実を知ったことはたしかだ、とあやふやな返事をしたにすぎない。ところが『ある神話の背景』では、宮平・山城の両氏から私が取材したことにされている。 

取材に関する事実
曽野氏は、宮平氏当人とも会って、そのことについて たしかめている ようだ。『ある神話の背景』では、つぎのようなカッコ付きの説明をしている。(もっとも、宮平氏はそのような取材を受けた記憶はないという)と書いてあるのである。そう書きながら曽野氏は、宮平氏から私が取材しているものと断定している。これは自己どう着である。宮平氏本人が私(太田)から取材をうけたことを否定しているのだから、では、太田は、だれから取材したのかということについて、曽野氏は、疑問をもつべきであり、さらに、取材に関する事実をたしかめるべきである。その疑問を残したまま、私自身もはっきりした記憶がないと答えてあったにもかかわらず、曽野氏は、私が宮平氏から取材したことにしてしまっている。そして、『鉄の暴風』の記述は、直接の体験者でない者からの伝聞証拠による記述だと断定しているのである。この断定のあやまちはどこからきているか。
『ある神話の背景』は、集めた資料や情報から帰納的に結論が導かれたものではなく、あらかじめ予断があって、それを立証するための作業であったようにおもわれる。はじめに赤松元大尉に会って、「悪人とは思えない」との印象をうけた。執筆者の私は、だれから取材したかについてあやふやな返事をした。だが、早とちりにとびついたのが〈伝聞証拠説〉である。そこで、宮平氏の被取材否定の高い障壁もカッコ付き説明で簡単にとびこえてしまったのである。でなければ書けなかった『ある神話の背景』の論理をささえる土台は、その点で、不安定なものとなる。
(太字は原文では傍点表記)


■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載3回目。

実は『鉄の暴風』は伝聞証拠によって書かれたものではないのである。それを明らかにする前に一言ことわっておきたいことがある。私は、曽野綾子氏に、取材した相手をはっきりおぼえていないと答えた。事実、そのときは、そうであった。取材相手をおぼえていないというのは、取材者としては、うかつのように聞こえるかもしれないが、それにはそれなりの理由があった。 

記録は取材の一部
一つの理由は、『鉄の暴風』を書くに当たっては、あまりにたくさんの人と会ったので、話を聞いた、それらの人たちがいちいちだれであったか、おぼえていないということである。一つの座談会に、多いときは二十人近くも集まる。座談会だけでもいくらやったかわからない。それも沖縄戦全般にわたっての取材で、渡嘉敷島の記録は、そのごく一部である。取材期間三ヵ月、まったく突貫工事である。それに『鉄の暴風』に記録として採用したのは、これまた取材の一部であり、記録されなかった証言者のものもふくめると、いちいちおぼえられないほどの人たちと会っている。
『鉄の暴風』は、証言集ではなく、沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため、証言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかった。 

立体的証言を信用
もう一つの理由は、取材のやり方である。『鉄の暴風』の執筆者は、牧港篤三記者と私の二人であったが、普通、ルポ・ライターがやるように、あるいは新聞記者が新聞記事を取材するように、私たち執筆者が任意に、あるいは主意的に取材相手を選択して取材したのではなく、話を聞くために人を集めるにあたっては、大体において、新聞社(沖縄タイムス)がお膳立てをしたのである。私たちは、社が集めてくれた人たちの話を記録して、それを文章化する作業につぎつぎと追われていた。
証言者の名をいちいちおぼえていないのは、そういう事情にもよるが、曽野氏から渡嘉敷島に関する取材相手を聞かれたときは、『鉄の暴風』の執筆からすでに二十数年もたっていたのである。
『鉄の暴風』で証言者の名前をいちいち記録しなかったのも、理由はほかにもあるが、そのときの証言者たちの一つの事件に対する複数の立体的証言を私たちが信用していたからである。生死の境をくぐってきたばかりの人たちの証言として重くみたからであり、沖縄戦の体験は、沖縄住民の歴史的な共有財産(注:原文は傍点)であると考えたからである。
渡嘉敷島に関する記録も、社が直接体験者を集めて記録したものである。記録の場所は那覇市内のある旅館の一室であった。その旅館は、現在の国映館の筋向いの奥まった所にあったようにおぼえている。このことを、『ある神話の背景』が出たあと、『鉄の暴風』を読み返していくうちに思い出したのである。

古波蔵氏も出席
新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない。あのとき旅館に証言者を集めたのは、沖縄タイムス社の専務だった座安盛徳氏(故人)だった。
当時、座安氏は、糸満に居住していて、その対岸の渡嘉敷島の関係者を集めるのに有利な立場にあった。そのとき、例の旅館に集まった人たちが誰々であったか、確かな記憶はないが、その中に、戦争中の渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏がいたことをようやく思い出した。古波蔵氏は、集団自決の現場にいた人である。
古波蔵氏とは、その後も二回ほど会っている。同氏は、姓を「米田」に改め、那覇の泊港の船舶関係の事務所にいた。その事務所に、私はいくつかの事実を確かめるために訪ねて行ったのである。この再度の訪問で、私が知りえた事実のなかには『鉄の暴風』に記録されなかったものもある。『ある神話の背景』のなかの他の箇所について反ばくできる材料であるが、伝聞証拠説に関する本筋から外れるので、ここでは割愛することにする。
戦後二十数年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後まもなく、戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる。



■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目

体験者の証言記録
『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。
直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。
『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録のなかで、具体的に名前が出てくるのは、住民の生存者では、当時の「古波蔵村長」と「渡嘉敷国民学校の宇久眞成校長」の二人だけである。『鉄の暴風』の問題の箇所の文脈からみても、その記録のなかに、すくなくとも、この二人の証言がはいっていることは察知できるはずだが、どういうわけか、ほかの面では、いろんな資料を鋭く読みとっている曽野氏が、この渡嘉敷島の記録が、伝聞証拠によるものか、直接体験者の証言によるものかという判断では、その目は曇ってしまっている。『鉄の暴風』のなかの記録が伝聞証拠によるものだとの前提が欲しかったからである。

宇久校長宅で取材
宇久眞成氏は、渡嘉敷島が戦場となった当時、国民学校の校長として、軍と住民の間にはさまれて苦しい立場に立たされた人である。『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録の末尾に出てくる、赤松大尉とその部下が米軍に降伏する場面は、宇久氏から直接聞いた話で、宇久氏は、その降伏式に立ち会っていたのである。その話は、私が単独で、宇久氏の家で取材した。
宇久家は、私が幼少のときからの隣家で、宇久氏の子供たちと私は幼なじみの間柄だったし、私が終戦の翌日、ジャワから復員したときも、一時、大分県に疎開していた宇久氏の留守家族の所に仮住まいし、その年十一月、沖縄に帰還するときも、宇久氏の家族の一員ということにしてもらって、いっしょに帰ったのであり、現在も、親族以上の交際を続けている。
宇久家は教育一家であり、長男と長女は定年で教職を退いているが、二男はいま高知女子大の先生である。宇久眞成氏(故人)は誠実な人柄であった。その宇久氏に、渡嘉敷島での体験を聞き、いろいろたしかめた上で、『鉄の暴風』のある記録を書いたのである。あのとき、口数の少ない宇久氏は、低い声でしみじみとした口調でつぶやいた。

「兵隊はこわい」----。
宇久氏が言う兵隊とは、赤松大尉と、その部下たちのことである。

記述改訂必要なし
これで、『鉄の暴風』のなかの渡嘉敷島に関する記述が、伝聞証拠によるものでなく、ほんとうの体験者からの取材であることをことわっておく。
伝聞証拠説で、『鉄の暴風』にある渡嘉敷島の記事はアテにならないものだという印象を与えた上で、『ある神話の背景』の論理は構築されているが、『鉄の暴風』の渡嘉敷島の記述が伝聞証拠によらない、実体験者の証言によって書かれたものとなると、あとに残るのは、赤松の言葉を信ずるか、渡嘉敷島の住民の言葉を信じるかと言う問題である。
私は赤松の言葉を信用しない。したがって、赤松証言に重きをおいて書かれた『ある神話の背景』を信ずるわけにはいかない。渡嘉敷島の住民の証言に重きをおいた『鉄の暴風』の記述は改訂する必要はないと考えている。
赤松はたしかな証拠もなく住民を処刑しているが、彼の言葉を信用して、彼のために全面弁護を試みている『ある神話の背景』よりも、戦争の被害者である渡嘉敷島の住民のなまなましい体験をもとに書いた『鉄の暴風』のなかの“渡嘉敷敗戦記”が信ずるに足るものである。同戦記は証言による記録として書かれたが、『ある神話の背景』は赤松弁護の意図で書かれている。


■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載5回目

『鉄の暴風』の渡嘉敷島に関する記録は、伝聞証拠によるもので、そのまま信ずることはできないという前提で、『ある神話の背景』は、集団自決の問題をもち出す。
渡嘉敷島住民の集団自決に関し、赤松大尉は命令を下したおぼえはないという。この“赤松証言”に曽野綾子は重点を置いている。しかし、その言葉の信憑(ぴょう)性をどう検証できるだろうか。もし、これが検証できないとすれば、『鉄の暴風』の記述を崩す根拠とはならないわけだが、『ある神話の背景』で、「赤松証言」の客観的真実性が証明されてはいない。たとえ赤松の命令があったとしても、赤松本人が「私が命令した」というはずはないのである。自分に不利な証言となるからである。命令は、あったとしても、おそらく口頭命令であったはずで、そうであれば、「命令された」「いや、命令しなかった」と、結局は水掛け論に終わるだけである。

共犯者の立場
この命令説の真相を知っていると思われる人物が二人いる。一人は、赤松の副官であった知念少尉であり、一人は赤松と住民の間に立って連絡係の役目をつとめた駐在巡査安里喜順氏である。この二人とも、『ある神話の背景』のなかで真相を語っているとは思えない。知念は赤松と共犯者の立場にあり、安里は自決命令を伝えたなどとは言い難いので、「自決命令」を否定するほうが有利なのである。
集団自決命令の有無をうんぬんする場合、物的な状況証拠となるのが、あのとき住民の手にわたった手りゅう弾で、それがなぜ住民の手に渡ったかということが問題である。『ある神話の背景』によると、手りゅう弾が住民の手に渡ったのは、防衛隊員が勝手に渡したのであって、「自分はあずかり知らぬ」といったような赤松の談話を載せてあるが、手りゅう弾は、戦力を構成する重要な兵器の一つであって、その取り扱いについては軍の指揮官が責任を負うべきものである。手りゅう弾が住民に渡されて、その手りゅう弾で、住民は集団自決を行っているのだ。その手りゅう弾は、住民の集団自決を結果するような状況をつくり出しているのだ。 

武器管理の常識
昭和二十年三月二十五日、米艦船は慶良間列島に激しい砲撃を加え、翌二十六日、米軍の一部が渡嘉敷島に上陸、二十八日に集団自決が行われている。最初、陣地の近くに集まった住民たちが、陣地近くの恩納河原に追いやられたとき、米軍の迫撃砲の攻撃をうけて、住民たちは死と隣り合わせの状況にあったことは確かだが、それだけが集団自決を誘発したとは思えない。それを誘発したのは手りゅう弾である。切迫した状況のなかで、手りゅう弾五十二発が住民に渡されたのだが、そのことがいちばん重要な意味をもっている。
これだけの手りゅう弾は、装備劣悪な赤松隊にとって、かなりの比重をもつ火力であったはずである。赤松元大尉は、手りゅう弾は、防衛隊員が勝手に住民に渡したのであって、自分は知らぬと言っていたようだが、防衛隊員が、どういう理由で、自分の意思で、同じ島の住民である非戦闘員に手りゅう弾を渡すのか、その動機や理由が理解できないし、防衛隊員も、また、大切な武器である手りゅう弾を上官の許可なく他人に渡したりすると、軍規上、厳しい処罰を受けるおそれがあることを知らなかったはずはないのである。
武器の取り扱いについては防衛隊員も厳格な注意を受けていたはずで、軍隊の指揮官が武器の取り扱いについての注意もなしに武器をあたえることは考えられないのである。
手りゅう弾が、防衛隊員を通じて住民に渡されたことについては、軍の同意、許可、あるいは命令があったとしかおもえない。平時、ピストルの不当所持をさえ警察は血眼になって摘発する。敵前での手りゅう弾のもつ意味は、その比ではない。手りゅう弾は防衛隊員が勝手に渡したのだ、おれは知らぬ、と赤松が言ったとすれば、これは軍隊の常識からみて、まったくのでたらめとしか言いようがない。そんなはずはないのである。



■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載6回目

赤松大尉の言葉
赤松大尉の命令または暗黙の許可がなければ、手りゅう弾は住民の手に渡らなかったと考えるのが妥当である。それ以外のことは考えられない。
曽野綾子氏は軍隊の組織を知らないから単純に赤松の言葉を信ずるのである。軍の指揮官は、武器の所在と実数を確実に掌握していなければならない。武器の取り扱いについては、指揮官の命令(注:原文傍点)が絶対に必要である。防衛隊員が、指揮官の命令がないのに勝手に武器を処分することは絶対に許されない行為である。それがわかったら、それこそ大変なことになる。敵前歩哨が居眠りをするだけで、死刑、ときめられている陸軍刑法のなかで、軍の生命である武器を指揮官の命令なくして処分することが何を意味するか、容易に理解できることである。防衛隊員を通じて手りゅう弾が住民に渡された事実を、赤松が知らなかったはずはない。「知らなかった」とは白々しい言葉である。
あの状況の中で、住民の手に手りゅう弾が渡ったことは、なにを意味するか。「死」を目前にしての手りゅう弾は、心理的に「死」を誘発する「物」だったのである。それに、手りゅう弾は、住民が求めたものでなく、あたえられた(注:原文傍点)「物」だった。 

追加された手榴弾
そして、そのあたえられた数にも問題がある。渡嘉敷島の集団自決者の数は、『鉄の暴風』では三百三十六人、沖縄タイムス社刊の沖縄大百科事典では三百二十九人となっている。だが、曽野氏は、その数を非常に少なく見積もろうとしている。そのため地形を説明したり、わずかの自決者しか目撃しなかったという兵隊の証言を引き合いに出す。二十人や三十人の自決なら手りゅう弾は四発か五発あればよい。何百人も自決したはずがないと曽野氏は疑っているが、住民に渡された手りゅう弾は五十二発である。一発の手りゅう弾が十人の自決用としても、この数は数百人分に当たる。
しかも、手りゅう弾の渡され方にも問題がある。自決用として住民に渡された手りゅう弾は、最初、三十二発だったが、さらに、二十発増加されたという。この「追加」は何を意味するか。最初の三十二発では足らないということで追加されたという。「足りない」と判断したのはだれかということになる。個々の防衛隊員が任意に判断したのか。個々の防衛隊員が勝手に渡すなら、まず、自分用の一個か、多くて二個である。防衛隊員が勝手に渡したのであれば、住民に渡された手りゅう弾全部の実数を個々の防衛隊員が知るはずがない。したがって、三十二発では足りないと判断したのは防衛隊員ではないはずだ。 

ある統一した意志
防衛隊員が軍の掌握下から完全に離れておれば、個々任意に渡したとも考えられるが、あのとき防衛隊員は軍の完全な掌握下にあったのである。集団自決の時期は、米軍上陸の直後であり、小さい島では軍の統制から全く離れることはできなかった。防衛隊員は軍に強くひきつけられていたのだ。防衛隊員が勝手に手りゅう弾を住民に渡したなどとは考えられない。また、集団自決直前、住民は、赤松の陣地付近に集合させられている。住民が勝手に集まってきたのだと赤松は説明しているが、当時の状況から考えてありえないことである。十数人の住民が偶然、その陣地付近にやってきたというなら、そういうこともありうるかもしれないが、この場合は、何百人という住民が、それぞれのかくれていた場所から出てきて集合しているのである。任意に集まるはずがない。かり出されたのである。
集団自決の直前に、住民の集結という事実があった。ある統一した意志が働かなければ、あの状況の中で、軍陣地に多くの住民が集結することはおこりえない。集団自決は、この「住民集結」という状況によって準備されたのである。
米軍上陸、赤松隊の陣地への住民の集結、そして手りゅう弾が住民の手に渡り、その直後、集団自決がおこった。これら一連の事実関係は見逃すことができない。
陣地付近への住民集結には、ある強い意志が働いていたと私は判断する。


■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載7回目

初め壕や洞穴に
米軍上陸と同時に住民は追われるように陣地付近に逃げてきたと『ある神話の背景』では説明する。砲撃と米軍上陸、この事実に直面した住民たちはとっさに、それぞれ安全とおもわれる場所、つまり壕や洞穴にかくれたようだ。それが当然である。いきなり猛攻をうけたときの反射的な初動である。『鉄の暴風』には「住民はいち早く各部落の待避壕に避難し…」と書いたが、実際はあわてふためいた本能的な行動だったと思う。そして、住民たちは各個に孤立し、そこには統一された意思はなかった。軍の意思により駐在巡査がかり集めたというのが真相であろう。その理由は「住民は捕虜になるおそれがある。軍が保護してやる」というのである。
米軍上陸が三月二十六日で、その翌日、赤松隊は西山A高地に陣地を移動している。その陣地の位置がまた問題である。赤松隊長自身、その移動先の陣地の場所を最初は知っていなかったと『ある神話の背景』に書かれている。壕や洞穴に身をひそめていた住民たちが、赤松隊がどこに移動したか知るはずがない。ところが、住民が新陣地である西山A高地の赤松隊の陣地付近に集まってきたのは、赤松隊が陣地をそこに移動したその当日である。住民集結には誘導者がいたのだ。軍の意思が働いていたのだ。 

安里巡査が伝達
住民は西山A高地のことは知っていても、そこに赤松隊が移動した事実を知るには、移動の事実の伝達者がいなければならぬ。その伝達者は安里巡査以外には考えられない。彼は軍と住民の連絡の立場にあったからである。赤松隊の説明のように、多くの住民が砲弾に追われて逃げこんだというのは、移動した陣地の所在が住民にとって不明の状態ではありえず、偶然がいくつもかさならなければ起こりえないことである。また、集団自決は、軍の玉砕を信じて決行されたものにちがいない。軍が戦後も生きのびて部隊降伏するとわかっておれば、集団自決は行われなかったはずだ。
住民の自決をうながした自決前日の将校会議についての『鉄の暴風』の記述を曽野氏は、まったくの虚構としてしりぞけている。『ある神話の背景』のなかにつぎの言葉がある。 

曽野氏こそ虚構
〈ただ神話として『鉄の暴風』に描かれた将校会議の場面は実に文学的によく書けた情景と言わねばならない。しかし、これは多かれ少なかれどの作家にも共通の問題だと思うが、文章を書く者にとっての苦しみは、現実は常に語り伝えられたり、書き残されたものほど、明確でもなく、劇的でもないということである。言葉を換えていえば、現実が常に歯ぎれわるく、混とんとしているからこそ、創作というものは、そこに架空世界を鮮やかに作る余地があるのである。しかし、そのようなことが許され得るのは、虚構の世界においてだけであろう。歴史にそのように簡単に形をつけてしまうことは、だれにも許されないことである〉。
よくかけた文章とはむしろ曽野氏のこの文章のことで、これでとどめをさしたつもりかも知れないが、あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない。将校会議はなかったということを証明するために、それをおこなう場所さえなかったと曽野氏は説明する。将校会議などやろうとおもえばどこでもできる。陣地の設備など問題ではない。
陣地になんの設備もなかったというのもおかしい。通常、陣地の移動は設備のある場所を選ぶ。「西山A高地」は軍隊用語であり、陣地名とおもわれる。渡嘉敷島には赤松隊がくる前に設営隊もおった。西山A高地は要塞の場所らしいが、その場所に、その翌年(前年の間違いでは?)からきていた設営隊や赤松隊は、そこに陣地もつくらずに何をしていたのだろう。しかも、西山A高地を“複廓陣地”とよんでいる。複廓陣地とは高度の防御陣地のことである。

■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載8回目

信頼どこにおくか
将校会議があったかなったか、赤松隊の陣地がどうだったかということは、付帯的な問題にすぎない。『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものであり、また、なかには創作的な記述があることを証明するためにそれらは持ち出されたものだが、『鉄の暴風』の記述がすべて実体験者の証言によるものであり、記述者の創作は介入していないことを言明することで答えとしたい。あとは、赤松側の言葉を信用するか、住民側の証言に信頼を置くかの選択が残されるだけである。
ありもしない「赤松神話」を崩すべく、曽野綾子氏は、新しい神話を創造しているにすぎない。そのやり方は手がこんでいる。『鉄の暴風』だけでなく渡嘉敷島に関するほかの戦記もすべて信用できないとする。なぜなら、それらの戦記にも『鉄の暴風』とおなじようなことが書かれているからで、それらすべてを否定しないと、赤松弁護の立論ができないのである。
沖縄側の渡嘉敷戦記の全面否定は、あとで曽野氏がいちばん信用できるとする赤松隊の陣中日誌なるものを持ち出すための伏線となっている。『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が、伝聞証拠によって書かれたとする判断をふまえて、曽野氏はつぎのように推理する。
曽野氏は、渡嘉敷島に関する三つの記録をあげている。沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』、渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』、渡嘉敷村が出した『渡嘉敷島における戦争の様相』の三つである。そして、この三つの戦記は、そのうちのどれかを模写したような文章の酷似が随所にある、と曽野氏は指摘する。結論を言えば他の二つの戦記は『鉄の暴風』のひき写しであるというのである。 

「事実内容」の問題
『鉄の暴風』の文章を、他の二つの戦記がまねたようだという判断から、事実内容までもほとんど『鉄の暴風』の受け売りだとし、『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が信用できないので、その文章をまねて書かれた他の二つの戦記の事実内容まで疑わしいとする推理だが、この推理はおかしい。渡嘉敷村遺族会編の戦記も渡嘉敷村編の戦記も、直接の体験者たちの証言または編集によってまとめられたものであることは間違いない。直接の体験者たちによってまとめられたものが、いくぶん文章をまねることはともかく、事実内容まで、伝聞証拠によって書かれたとされる『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記をまねるということがありうるだろうか。
この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである。三つの資料は、いずれも直接体験者の証言に基づくものであって、直接体験者でない者からの伝聞証拠によって三つの記録の事実内容が共通性をもたされているのではないことはあきらかである。

私製の「陣中日誌」
曽野氏が最も信用できる資料として赤松弁護の道具に使っている赤松隊の「陣中日誌」なるものは、ほんとの「陣中日誌」ではない。軍隊では、作戦要務令で規定された陣中日誌を「陣中日誌」というのだが、赤松隊の陣中日誌なるものは、戦後まとめられた(記述の年月日がある)もので、「私製陣中日誌」であることがわかった。しかも自画自賛と自己弁護の色合の強いもので、客観的資料として信用しがたいものである。
現地側の戦記資料はすべて否定し、赤松隊のこの「私製陣中日誌」に最大の信を置いて書かれたのが『ある神話の背景』である。赤松隊の「私製陣中日誌」と曽野氏の『ある神話の背景』とは、書かれた意図に似通うものがあり、赤松隊弁護の意図で重なり合っているが、『ある神話の背景』があるていど公平を装っている点だけがちがっている。


■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載9回目

任務放棄に失望
赤松嘉次大尉の証言は信用しがたい。その一例をあげておく。赤松隊の任務は舟艇による特攻であった。だが、赤松隊は、渡嘉敷島に米軍が来攻したとき、みずから舟艇を破壊して、米艦船に対する特攻という本来の任務を放棄してしまった。
この任務放棄に関し、赤松は、慶良間巡視中の船舶隊長大町大佐の命令があったからだとしている。大町大佐は慶良間近海で戦死しているので死人に口なしである。大町大佐がわざわざ特攻中止を命ずるために慶良間巡視に出かけたとは思えないが、この出撃中止が軍司令部の意向ではなかったことだけはっきりしている。
沖縄守備第三十二軍の高級参謀であった八原博道大佐の手記『沖縄決戦』によると、慶良間の海上特攻に一縷の望みをかけていたことがわかる。「好機断固として海上に出撃すべきである。願わくば出撃してくれと祈る」云々の言葉がある(同書144ページ)。現地からの無線連絡で攻撃失敗がわかると、八原参謀は「意志が弱く、不屈不撓あくまで自己の任務目的を遂行せんとする頑張りが足りない」と慶良間の海上特攻隊に失望の色をみせている。 

無電内容も疑問
たとえ大町大佐が出撃中止を命じたとしても、その場合、無電で、首里の軍司令部にその真相をたしかめる方法が赤松大尉には残されていた。慶良間群島に海上特攻を配置させたのは、高級参謀八原大佐だった。また、八原大佐は海上特攻の主任参謀でもあった。特攻の出撃中止が軍司令部の意志を無視しておこなわれたことは同大佐の著書で明らかである。
「出撃不可能」との軍司令部に対する慶良間現地からの無電内容にも疑問がはさまれる。出撃中止の時点で、赤松隊も舟艇も米軍の陸上攻撃をうけていないのである。出撃は、夜間に企画されたもので、米軍による夜間の陸上攻撃は考えられない。渡嘉敷島に対する米軍の攻撃が始まったのは三月二十五日未明、米軍の一部が渡嘉敷島に上陸したのは翌二十六日の未明、すると二十五日夜から翌日未明にかけての夜間は何をしていたのかということになる。赤松隊長が中止させたと『鉄の暴風』には記録されている。また、事実、わざわざ舟艇を自爆させるだけの余裕があったことがすべてを物語っている。ちなみに、沖縄本島周辺の他の海域では、随所で舟艇による果敢な海上特攻が実行されて戦果をあげている事実がある。慶良間の特攻隊の任務放棄はまったくの例外であった。 

住民処刑の例
とにかく、赤松戦隊は、海上特攻という最重要の任務を放棄したからには、軍司令部から見れば、戦略的にも戦術的にも無意味な存在となったのである。その後、この戦隊には、陸上戦闘による戦果がほとんどなく、米軍はなんの損害もうけなかった。赤松隊は無力な島の住民との間にいろいろなトラブルをひき起こしているだけである。
じつは、赤松が、集団自決を命令した、命令しなかったという事件よりも、住民処刑のほうがもっと問題である。集団自決下命問題は、赤松が下命しなかったといえば、それで不確定性をもつ性格のものだが、住民処刑は否定できない事実である。曽野氏は、不確定性をもつ集団自決を前面に出して、一種の煙幕を張り、そのあとで、否定できない事実である住民処刑については、軍の綱領や軍法などを持ち出して各種の弁護を試みているが、その弁護は別の事実によって支離滅裂となるのである。その事実とは、住民処刑と矛盾する兵隊に対する赤松の処置である。

住民処刑について、二、三の例をあげる。
伊江島出身の若い女性たちが米軍にたのまれて赤松の陣地に行き、降伏勧告文を取りついだために斬首の刑をうけている。また、終戦の日の八月十五日、米軍の投稿勧告分を陣地近くの木の枝に結んで帰ろうとした与那嶺徳と大城牛の二人が捕えられて殺された。しかし、おなじ降伏勧告でも相手が日本の軍人であった場合は、赤松大尉はちがった態度をとっている。『ある神話の背景』の121ページ、122ページをみればわかる。



■「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載10回目
終戦直後、日本の中尉と下士官が赤松のところに降伏勧告にきている。しかも、下士官は米軍の服装をしていた。降伏勧告にきた住民がことごとく殺された事実からすれば、相手が軍人であれば、なおさら厳格に対処すべきである。だが、赤松は降伏勧告にきた二人の軍人をおとなしく帰している。

大城訓導は民間人
また、家族に会いに行ったというだけの理由による大城訓導の処刑がある。渡嘉敷国民学校の大城徳安訓導が、島内の別の場所にいた妻にこっそり会いに行ったという理由だけで、縄でしばられて陣地に連行され、斬首(ざんしゅ)されたのである。この事件について、曽野綾子氏は、大城訓導が「招集された正規兵」(曽野氏は、防衛隊員を正規兵と解釈している)だったことをあげて、赤松の処置が「民間人」に対するものでなく、軍律により軍人に対してとられた処置(処刑)で、不当ではなかったと弁護する。
防衛隊員が「正規の軍人」であったとする解釈には同意できないが、大城訓導は、正式な防衛隊員でもなかった。防衛召集は満十七歳以上、四十五歳までの男子が対象で、武器をあたえられず、飛行場建設や陣地構築に使役され、戦場では弾丸運び、まったくの補助兵力であった。召集の時期は、昭和十九年十月から十二月までと、昭和二十年一月から三月までの二回だが、この二回の防衛召集で大城訓導は召集を受けていない。
渡嘉敷国民学校の校長だった宇久眞成氏から私が直接きいた話によると、大城訓導は、当時、教頭であり、年齢も四十九歳、防衛召集年齢の上限(四十五歳)をこえていた。(小学校教員は、普通、防衛召集の対象からはずされていた)。その大城訓導を、赤松大尉が勝手に防衛隊員にしたらしい。これは、甚だしい越権行為であった。召集は国家行為であるからである。大城訓導は、殺されるまで「民間人」であったのだ。

赤松批判で私兵に
なぜ、赤松は勝手に大城訓導を防衛隊員にしたのか、そのことについて、宇久氏は、大城訓導があからさまに赤松隊のやりかたを批判したことに原因があったのだと説明した。赤松批判が知れて強制的に赤松大尉個人の「私兵」とされたようである。大城訓導は、親子ほど年齢差のある若い兵隊たちから相当いじめられたらしく、苦役と精神的苦痛にたえられなかったが、妊娠中の妻(おなじく教員)のことが心配で、無断で妻に会いに行き、陣地を勝手に離れたとして殺されたのである。 

戦争体験への暴挙
ところが、赤松隊から隊員である二人の兵隊が逃亡するという事件があった。このとき、部下の兵隊二人の逃亡を赤松は見逃している(『ある神話の背景』230ページ)。この兵隊逃亡に対して、赤松大尉は「去る者を追うのはよそう」と言った、というのである。部下の兵(身内)に対しては、なんという「寛大な処置」であろう。指揮官が部下兵の逃亡を見逃すのは「逃亡幇助」であって、軍律上、許せない行為である。兵隊の「敵前逃亡」は陸軍刑法では死刑である。
住民処刑は、たいてい「通敵のおそれがある」という理由によってなされている。住民をスパイ視していたわけだ。たとえ住民をスパイとして利用することにしても、敵である米軍よりも味方である赤松隊のほうが、言葉も通じるし、同国民でもあるという立場からみて、はるかに有利な条件を備えていたはずで、住民は、敵情をさぐらせるのに好都合で、その意味では、補助戦力に転化できたはずだが、それはあくまで赤松隊に敵攻撃の意志があった場合にかぎられる。その意志がなければ、住民は、逆に、陣地の所在を敵に通報するのではないかという危惧の対象にしかならない。赤松隊は、まさに、その危惧の目で住民を見ていたのである。
この事実は、赤松が攻撃の意志を全く失い、自己陣地の暴露と敵の攻撃だけを極度に恐れていたことを雄弁に物語っている。古波蔵樽(たる)という男が家族全員を失い、悲嘆にくれて山中をさまよっているところを、スパイの恐れがあると言って、高橋伍長が軍刀で斬殺したという事件もある。
沖縄戦に「神話」などというものはない。沖縄戦は今日的な出来事であるし、沖縄にいたすべての住民が自分の目で見て体験したことである。『鉄の暴風』は、まさにこの体験の記録である。曽野氏の『ある神話の背景』は、沖縄住民の戦争体験の重さを甘くみた暴挙であり、とくに住民処刑についての全面的な赤松弁護はまったく軽率である。
(おわり)




■太田良博の曽野綾子への再批判(沖縄タイムス)


http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/5.html
■「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(1)


手榴弾への疑問
曽野綾子さんの「お答え」を呼んで、一面、非常に満足している。渡嘉敷島の赤松問題については、だいたい白黒がはっきりしたと思うからである。というのは、私が出した、いちばん重要な問題――手榴弾が、なぜ、住民に渡されたか、同一行動(降伏勧告、逃亡)について、住民は殺され、兵隊は見逃されている事実――に関しては、なんの回答もないからである。この論争は、これでケリがついたようなものだ。他の面では、曽野さんの「お答え」には、がっかりした。もっと期待していたが、その調子が低いのには拍子抜けである。曽野さんの「お答え」にたいする答えは、あと回しにする。
まず、根本的な問題、手榴弾が住民に渡されたこと、その他について補足説明、または言及しておきたい。

▼弾薬類は兵隊の手にかんたんに渡るものではない。昭和十一年の二・二六事件で、兵は夜間演習と称して出動させることができるが、叛乱将校たちにとって最後の難問は、兵器庫の銃弾をどうして持ち出すかということだった。兵器は、中佐、少佐を長とする将校・下士官で構成される兵器委員の管理下にある。ふつう兵器庫の鍵は、兵器委員の下士官が所持している。通常の手段では、兵器委員や連隊長に企画がもれる。結局、二・二六事件の場合は、叛乱軍の少尉ほか数名が、兵器委員の下士官に暴行を加えて鍵をうばった。鍵を奪われた兵器係軍曹は、その直後、責任を感じて自決している。
作戦中は、武器弾薬の処置はさらにうるさい。手榴弾などが住民の手にかんたんに渡るはずがない。赤松隊の隊員たちは、軍律がきびしかったように言っているから、なおさらのこと、武器弾薬の管理も厳格でなければならなかったはずだ。そういう状況を考えると、大量の手榴弾が住民に渡されたということは、ただ事ではないのである。また、手榴弾のようなものは、絶対に信頼できる者でなければ渡せないものである。信頼できないものに渡したら、逆に、自分らのところに投げつけられるおそれもあるからである。
ところで、赤松は住民を信頼していない。どの住民も通敵のおそれがあるとみている。たびたびの住民処刑にそれがあらわれている。それでは、信頼していない島の住民に、なぜ手榴弾を渡したかが問題である。「これで、死ね」というので渡したこと以外のことは考えられないのである。 

一種の無理心中
▼ここで、「集団自決」という言葉について説明しておきたい。『鉄の暴風』の取材当時、渡嘉敷島の人たちはこの言葉を知らなかった。彼らがその言葉を口にするのを聞いたことがなかった。それもそのはず「集団自決」という言葉は私が考えてつけたものである。島の人たちは、当時、「玉砕」「玉砕命令」「玉砕場」などと言っていた。「集団自決」という言葉が定着化した今となって、まずいことをしたと私は思っている。この言葉が、あの事件の解釈をあやまらしているのかも知れないと思うようになったからである。
「集団自決」の「自決」という言葉は、〈自分で勝手に死んだんだ〉という印象をあたえる。そこで、〈住民が自決するのを赤松大尉が命令する筋合いでもない〉という理屈も出てくる。「集団自決」は、一種の「心中」または「無理心中」である。しかし「心中」は、習俗として、沖縄の社会では、なじまないものである。まれではあるが、自殺はある。サイパンで、沖縄の女たちが断崖から飛びこむ記録フィルムを見たことがあるが、あれは「心中」ではない。
壕の中で、赤子の泣き声が敵に聞こえると、わが子を殺した母親の話があるがそれも兵隊から強要されたからである。なかには、それができず、兵隊が赤子の首をしめた。そして、母親は気が変になったという話もある。「無理心中」は、しかも、渡嘉敷島であったような悲惨な方法による殺し合いは、沖縄では、外部からのぬきさしならぬ強制がなければ起こりえないものである。自発的におこなわれるものではない。 

目撃した米兵の証言
渡嘉敷島のあの事件は、じつは「玉砕」だったのだ。「玉砕」は、住民だけで、自発的にやるものではなく、また、やれるものでもない。「玉砕」は、軍が最後の一兵まで戦って死ぬことである。住民だけが玉砕するということはありえない。だが、結果としては、軍(赤松隊)は「玉砕」しなかった。PW(捕虜)になって生還した。軍もいっしょに玉砕するからと手りゅう弾を渡されたと思われる。いま、沖縄タイムスに連載されている米軍記録「沖縄戦日誌」の去る一月二十日の記事によると、あの住民玉砕の現場を目撃した米兵の証言がのっている。現場には日本兵が何人かいたようで、米兵は、その日本兵から射撃をうけている。
どうも、あの玉砕は、軍が強要したにおいがある。資料の発見者で翻訳者の上原正稔氏は、近く渡米して、目撃者をさがすそうである。目撃者の生存をたしかめているらしく、「さがせますか」ときくと、「そんなことわけはないですよ」という返辞だった。



■「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(2)

一日分の弾量で
▼「沖縄方面陸軍作戦」という防衛庁から出た本がある。それに、赤松隊が所持していた銃器弾薬の数量が記載されている。その数量は、赤松大尉あたりが提供した資料にもとづいたものであるはずである。また、たしか、そう書いてあったようにおぼえている。この数量をみて、いまさらのように、ああ、そうだったのかと思った。それは、一日の激戦で射ちつくせるだけの弾量でしかなかった。
その中での、住民に渡された五十何発かの手榴弾のもつ重みもわかった。住民とともに玉砕するだけの弾量しかもっていなかったのだ。それで、住民が玉砕したあと、赤松隊は「持久戦」に転じたというわけである。「持久戦」というのは、それによって、敵に軍事的な損害をあたえるための兵法の一ツの型である。たくさんの米艦船にとり囲まれた小さな渡嘉敷島で、わずかな銃弾しかもたないで、どんな損害を米兵にあたえることができただろうか。兵隊が大量に武器を持っておれば「持久戦」という言葉が使えるかも知れない。
そうでない場合、「持久戦」の「戦」はとって、「持久」とすべきである。そして、「持久」とは、「生命の持久」のことで、事実、その通りの結果になっている。兵器は、住民玉砕、住民処刑、住民威圧に使われたのだ。そして、その兵器は、降伏のとき、全部、米軍に渡している。「持久」の目的が達成されて、不要になったからである。
赤松隊陣中日誌、沖縄方面陸軍作戦、赤松隊員の証言などから降伏状況をみると、赤松大尉が部下の隊員たちより一足さきに降伏していることが、はっきりしている。赤松大尉は昭和二十年八月二十三日に投降し、部下本隊が投降したのは八月二十六日である。難破船の船長が他の船員たちより、さきに救命ボートに乗り移ったようなものである。赤松は降伏のとき、確保してあった缶詰類を米軍にプレゼントしたようだ。「ある神話の背景」をみると、兵隊たちは餓死寸前であったことが強調されている。そうであれば、残った食料は部下の兵隊たちに分けあたえるべきであった。部下の証言によると、ひと足さきに投降した赤松大尉は、米軍からもらったタバコをプカプカふかしていたようだ。 

責任逃れの赤松
▼手榴弾による住民玉砕と伊江島住民の処刑事件に対する赤松大尉の言葉から関連づけて考えられるものがある。米軍にたのまれて、赤松の陣地に降伏勧告に行って殺された伊江島住民は六名、そのうち男三名は、私が処刑を命じた、と赤松は告白している。しかし、女たちは、自決しますと言うから、鈴木少尉が自決幇助(ほうじょ)をしたのだ。つまり、自決するというから自決を助けた(斬首した)にすぎない。処刑したことにはならない、というわけである。赤松は、こんな理屈を言う。
日本の封建社会で、大名が家臣に切腹を命ずることがあった。そのばあい、切腹した者がみずから自決したのだから、命令者に責任はない。切腹したものの自害行為だったと言えるだろうか。
渡嘉敷島住民の自決について、自分に責任はないと赤松は言う。女たちを殺したのは、あれは自決幇助だったという。「住民玉砕」も、伊江島住民の処刑についての言いわけと同じ意味での自決幇助ではなかっただろうか。私は、そいう思っている。玉砕場での住民の阿鼻叫喚の声を聞いて、赤松は「あの声をしずめろ」と兵隊に言ったようだ。住民の断末魔の苦しみの声が、赤松には耳ざわりだったのだろう。苦しんで泣き叫ぶ人たちにいくら声を大にして「静かにしろ」といったってききめがあるはずがない。「あの声をしずめろ」とは、「殺せ」ということである。「ある神話の背景」では、あとで住民の玉砕を知って、赤松は、早まったことをしてくれたと言ったというのである。住民の最後の悲鳴を聞いて、「うるさい」と感じ、自分の「心の不快」を取り除くことしか考えなかった赤松に、住民にたいする思いやりがあったとはおもえない。しかし、話しには矛盾がある。 

住民を保護せず
赤松は、現に、住民の死の叫びを聞いている。だのに、あとで、そのことを知って、うんぬんというのはおかしい。「住民玉砕」の事実は、事前に知っていたはずである。手榴弾は軍から住民の手に渡されたのだから--。まさか手榴弾を米軍に投げつけなさいと言って渡したわけではあるまい。「あの声をしずめろ」(殺せ)という前に、別の言葉で、内容の同じことを言ったはずだ。
赤松隊の住民に対する態度は、〈住民は保護しない〉〈住民は米軍に投降させない〉という態度であった。住民の生きる道は、すべてふさがれていたのだ。それでも、赤松の陣地からはなれたものは助かった。赤松の陣地に接近した者たちだけが「玉砕」せざるをえない状況に追いこまれたのだ。「玉砕」と「住民処刑」は、おなじ理由、通敵のおそれがある。陣地を見たからには、という理由によるものであった。ほかの島民は「玉砕」しなかったのだ。「玉砕」は強制されたものであった。



■「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(3)

「限定した事柄」
曽野綾子さんの「お答え」に答えることにする。まず、曽野さんのジャーナリズム批判から始めよう。「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と私は書いたのである。この文章をよく読んでみたらわかる。この文章の分析はしないことにするが、私は、一つの条件を前提として、限定した事柄について言っているのである。新聞社があやまちをおかすことはないなどとは言っていない。
曽野さんは、この文章にとびついてきた。そして、世の主婦をバカにしたような文言をはさみながら、「太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある」と、見下したようなことを言う。「鉄の暴風」で、私の書いたものが、伝聞証拠によるものだ、と曽野さんが「ある神話の背景」のなかで言うから、そうではないと言っているにすぎないのだ。それだけのことが、どうして、「ジャーナリズムに対して、想像もできない甘い態度」ということになるのか、さっぱりわからない。
私の前述の文章を、別の言葉で、具体的に言えば、新聞は、記者が取材してきたものを、デスクという関門でチェックして編集されるが、その形式が、そのまま「鉄の暴風」の執筆や編集にも移されたということである。執筆が牧港氏と私、監修が豊平良顕氏(当時、常務)、つまり、牧港氏と私は先輩記者の豊平氏に対して、豊平氏は社に対して責任をもつ、つまり、一つの関門があって、私の勝手にはできなかったということである。 

「鉄の暴風」は真実
ここでは、「鉄の暴風」が、曽野さんが言うように伝聞証拠で書かれたものか、そうでないかが重要な論争点である。「鉄の暴風」は伝聞証拠で書かれたものではない、直接体験者から聞いて書いたものだ、と私が言うと、こんどは、「新聞社の集めた直接体験者の証言なるものがあてになるか」と言い出す。子供が駄々をこねるようなことは言わないでほしい。おなじ直接体験者の証言でも、新聞社が集めたもの(「鉄の暴風」は信用できないが、自分が集めたもの(「ある神話の背景」)は信用できるのだ、と言っているのだろうか。
曽野さんは、新聞社がもち出す直接体験者の証言が、いかにアテにならないものかという引用例として、朝日新聞社の「誤報問題」なるものをもち出している。
「極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある」と、曽野さんは書いている。 

毒ガス報道論議
そのことについて、私は、こう思う。朝日の写真を一目見ただけで、それが毒ガスでないことが分かったという「おおかたの戦争体験者」の証言そのものが、怪しい。彼らが、すぐ、毒ガスかどうかが分かるということは、日本軍がたえず毒ガスを使用していたということを意味する。毒ガスはジュネーブ条約で使用を禁止されており、使用したことが分かれば世界中の批難をうける。めったに使えない化学兵器である。戦場で毒ガスを実見したものは戦場体験者でもなかなかいないのではないか。一般兵が知っているのは防毒面の着けかたぐらいのものである。毒ガスというのは、相手が使えば、こちらも、といった“準備秘密兵器”だから、兵一般が毒ガスの知識を持っているわけではない。
特別に「ガス兵」としての訓練をうける者はたしかにいた。実は、何カ月か、私はその「ガス兵」の訓練をうけたことがある。その訓練は、相手からガス攻撃をうけたときの防御措置が主なる目的であった。ほとんど忘れてしまったが、ガスの種類と、その時の空気の状況によっては、煙状のものが高く立ちのぼることがある。それでも白黒写真ではガスかどうか判定はむずかしいのではないか。また、開闊(かいかつ)地でも使えないことはない。早朝など、気流の上下交代とか、空気の密度の関係などで、目には見えないが、地上低く、天井のような空気の層ができ、煙は一定の高さ以上に上昇しないときがある。そういう場合には、ガスが使われる可能性がある。
見方軍隊が前進攻撃する前方にガス弾を射ち込むはずがないというのは、まったくの無知である。そのときは、味方の軍隊には防毒面の着用を命ずるからである。新聞を批判する側の直接体験者の証言なるものも、かならずしもあてにはならない。
朝日新聞が、はじめからガス弾でないと分かっていて、例の写真をかかげたのなら、それは「虚偽の報道」ということになる。だが、知らないで、それをガス弾の写真と信じてのせたのであれば、それは「誤報」である。
たとえ、客観的事実とはちがっていても、報道の真実からはずれているとは思えない。




■「赤松手記」ー潮1971年11月号


雑誌「潮」1971年11月号
特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか

《私記》私は自決を命令していない
"極悪無残な鬼隊長だった。といわれているが、ことの真相を事実に基き明らかにしたい

赤松 嘉次
元海上挺進第三戦隊長・肥料店経営

《私記》私は自決を命令していない
怒号のアラシの出迎え
出撃を中止した背景には
曲解された"軍命令"
住民の集結すら知らない
住民を惨殺したというが
投降までのいきさつ
投降時、村に三つの色分け
なぜ現地調査をしないのか


【写真】渡嘉敷島へ転進まえの筆者(当時23歳)

怒号のアラシの出迎え
「何しにノコノコ出てきたんだ! 今ごろになって!」
「おまえは三百人以上の沖縄県民を殺したんだぞ! 土下座してあやまれ!」
耳をふさぎたくなるほどのすさまじい怒号が、飛行機のタラップから降り、空港エプロンに向かった私を急襲した。エブロンには数多くの、抗議団と称する人々が集まっていて、口々に「人殺しを沖縄に入れるな!」「赤松帰れ!」のシュプレヒコールを、私にあびせかけてきた。
戦時中の基地であった渡嘉島で、昨年の三月二十八日行なわれるはずだった「第二十五回忌合同慰霊祭」に、島の人々に招かれて、私たち海上挺進第三戦隊の生存者の有志たちが、訪沖の第一歩をしるしたさいの出来事である。
ある程度のことは予想していたのだが、かくも激越な抗議デモに出迎えられ、モミクチャにされるとは夢想だにしなかったし、また、その後約半月にわたり、沖縄の新聞でいろいろと取りざたされたのには、驚きをいだいたというより、まったく戸惑ったというのが実感である。
それまでにも、週刊誌等に数回、私のことが取り上げられていたが、多くは興味本位的な記事であり、いかにも私が「三百有余」の島民に一方的に自決を命じたかのような内容が、沖縄の方々に深く信じられているとは、夢にも思っていなかったのである。
日本でも、戦後しばらく暴露的な読み物や映画が多く出回り、世人のヒンシュクを買ったが、しだいに生活が落ち着くとともに、それらの多くは姿を消していった。だから、渡嘉敷での私たちのことも、時日が真相を明らかにしてくれるものと信じていた。さらに、戦後、沖縄の知人との文通も途絶えがちで現地沖縄の様子もわからぬまま、慰霊祭参列のための訪沖となり、抗議デモに遭遇したのである。
私には大学にいっている娘がある。この娘が事件を知って「お父ちゃんは軍人やった。軍人なら、住民を守るのが義務じゃないか」と私に質問したことがある。そのとおりなのだ。いかにして島を死守し、最後の一兵まで戦うかに夢中だった状態のなかでも、われわれはなるべく住民を戦闘に巻き込まないように心がけた。
いまさら、弁解がましく当時のことを云々するのは本意ではないが、沖縄で"殺人鬼"なみに悪しざまに面罵され、あまつさえ娘にまで誤解されるのは、何としてもつらい。編集部からの切望もあり"誤解"されている間題点のひとつ、ひとつを以下で説明してみようと思う。
現在出回っている、おびただしい数の沖縄戦記物の多くは、一九五三年にまとめられた『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』(渡嘉敷村遺族会編)の記録をパラフレーズしている。この記録は、当時の村長だった米田惟好氏(のぷよし、旧姓、古波蔵=こはぐら)を中心に編まれたものである

出撃を中止した背景には
昭和ニ十年三月二十一日から、米軍は大空爆と艦砲射撃を加え、山は、二日も三日も燃えつづけ、火は夜空をこがした。ところが、海上挺進隊の隊長だった「赤松大尉は船の出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した」(中野好夫.新崎盛暉著『沖縄問題二十年』岩波新書)という。
私たちの海上挺進隊は、ベニヤばりのモーターポートに120キログラム爆雷二個を積み米軍船団を夜襲、体当たりを敢行する特殊部隊だった。慶良間に三隊(座間味、阿嘉の両島に第一、第二戦隊がいた)、沖縄本島に三隊の、計六戦隊が配置されていた。隊員は第三戦隊の場合、当時二十五歳だった私を長に、十六~十八歳の特別幹部候補生百四名で編成(開戦時には病気、事故などで百名を割っていた)百隻の○レ(マルレ)艇を有していた。
出撃準傭から船舶自沈にいたるまでの状況を、戦闘中、基地勤務隊の辻政弘中尉が塹壕の中で書き綴った第三戦隊『陣中日誌』に追ってみよう。

【写真】 戦闘のさなか渡嘉敷島で記した 『陣中日誌』
【引用者註】これは戦闘中塹壕の中で書き綴ったものではない。綺麗過ぎる。後に書き直したことが「ある神話の背景」にも書かれている。また、基地勤務隊が赤松大尉と同道していたかは不明といえる



「三月二十五日晴、暁と共に敵機の来襲を受く。〇九三〇敵機動部隊は巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、砲艦等約十五隻慶良間海峡に侵入、我が地上陣地、基地設備に織烈なる艦砲射撃を受く、我が方反撃する火器なきため水際陣地等に於いて夜のとばりを待つ、一七〇〇頃より敵機動部隊監視艦を残し南方洋上に退去……二〇〇〇戦隊長(赤松)出撃を考慮し、独断各(中)隊1/3の舟艇に泛水を命ずると共に本島船舶団本部に『敵情判断如何』と打電。……二一三〇船舶団本部より『敵情判断不明、慶良間の各戦隊は情況有利ならざる時は、所在の艦船を撃破しつつ那覇に転進すべし』との返電あり」
珍しい条件付きのこの本部命令は、ちよっと類がない。だが、この命令下令は、当時のことを記した軍関係の本(自衛隊保存)にも出ている。私どもが故意に、もしくは無意識的に、無線を誤読したわけではない。「戦隊長は命令を協議の上、本島転進に決し……残り2/3の泛水作業を決行……折から慶良間列島を視察中の第十一船舶団長大町茂大佐以下十五名敵戦艦の中を突破……上陸」
ところが、慶良間列島をあちこちと視察しておられた船舶団長は、この命令を知らず、上官無視だと非常に立腹された。私は敵中突破して那覇に向かう決心を述べたが、団長はなかなか同意してくれない。種々協議の結果、戦隊の主力(一個中隊欠)をもって、大佐を護送することを決定。この間の事情も『陣中日誌』に明記されている。
「三月二十六日晴、出撃準備命令(註・大佐護送のため)湾外より艦砲受け、水面にて瞬発信管により散弾飛び散り、又焼夷弾山の肌を焼く中泛水作業……敵を迎撃する基地特設隊の感情交錯し、干潮のためリーフ各所に露出、延々五時間を要し、東天既に黎明近く、白昼編隊を組んで敵機動部隊の中をベニヤ製の攻撃艇が本島に到達すること不可能なるを考え、船舶団長(大町)再び艇の収容揚陸を命ず。戦隊長(赤松)現在使用しうる人員を以てする揚陸は不可能と判断、団長に出撃命令下令を懇願せしむるも空しく……全員揚陸作業行なうも、敵機の空襲(グラマン機)を受く。茲に於て遂に涙をのんで残余六十余艇の舟艇に対し自沈を命ず」
以上で、私が生命への未練や気遅れから、身がってな"破壊命令"を出したのではないことだけは、わかってもらえると思う。

曲解された"軍命令"
次にこれまでの戦記によると、その後私は、「上陸したアメリカ軍を地上において撃減する戦法に出る、と宣言、西山A高地に部隊を集結し、さらに住民にもそこに集合するよう命令を発した。住民にとって、いまや赤松部隊は唯一無二の頼みであった、部隊の集結場所への集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合したのである。しかし赤松大尉は住民を守ってはくれなかった。『部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである」(上地一史著『沖縄戦史』時事通信社)という。
二十六日夜、大町大佐を渡嘉志久の基地から送り出したあと、私たちは山の反対斜面に本部の移動計画を立て、寝ていると、十時過ぎ、敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が「上陸はたぶん明日だ」と本部の移動を伝えると「では住民は? 往民はどうなるんですか」という。正直な話、二十六日に特攻する覚悟だった私には、住民の処置は頭になかった。そこで「部隊は西山のほうに移るから、住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と示唆した。これが軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない。

住民の集結すら知らない
しかし、村当局が、部隊の背後に隠れるのが、もっとも上策だと判断したのも、とうぜんだろう。村では、まえまえから集結する計画もあったのではないかと思われるフシもある。もちろん米軍上陸前に出撃してしまう隊長に、上陸後の村民の処置など相談する必要はなかったのであるが……。
二十七日、米軍の上陸開始、二十八日には部隊も住民も完全に包囲されてしまった。われわれの陣地のほうからは、集結した住民の姿も見えなかった。『陣中日誌』を開くと――
「三月二十八日 小雨 晴 夜雨、昨二十七日上陸したる敵は一部海岸稜線上を渡嘉志久へ、一部は我陣地北側の高地に布陣せるものの如し……昨夜出発したる各部隊夜明けと共に帰隊、道案内の現地召集隊の一部、支給しありたる手榴弾を以って家族と共に自決す。……小雨の中、敵弾激しく、住民の叫び阿修羅の如く陣地彼方に於いて自決し始めたる模様。( 筆者 註=自決は翌日判明したるものである)


【引用者註】はてさて、「住民の叫び阿修羅の如く」は翌日聞こえてきたのであろうか? それに、「住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と示唆しておきながら、「住民の結集すらしらない」というのは、「われわれはなるべく住民を戦闘に巻き込まないように心がけた」ことになるのだろうか?



 三月二十九日 曇雨 悪夢の如き様相が白日眼前に晒された、昨夜より自決したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自決後、判明)首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部を切断したる者、戦いとはいえ言葉に表し尽し得ない情景であった」とある。



【引用者註】これは、完全に自己撞着である。赤松元大尉が曽野綾子に語ったこととも矛盾している。この『従軍日誌』が後から書かれ、「様々な戦史」との辻褄合わせに苦心したものであることが窺われる。



さまざまな戦記にあるごとく、私が、自決に失敗した住民が軍の壕へ近づくと、壕の入り口で立ちふさがり、軍の壕に入るなとにらみつけたかどうか。
第一、当夜、私は住民と顔を合わせていない。前述のごとく集結していたことすら知らなかったのだ。この「住民を自決から救えなかった手ぬかり」は、私もじゅうぶんに責任を感ずるところである。ほんとうに申しわけないと思っている。
三月二十一日夜、舟艇出撃の諸準備完成を機に、私は渡嘉敷部落に帰り、村長以下村の有志と夕食をともにし、今日までの協力を感謝し、さらにこんごの協力を要請したのである。しかし、両者の意思疎通をはかるため、早くからこのような機会をもつぺきであったと反省している。
自決命令を下したあと「赤松大尉は、将校会議で『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。……』と主張したという」(岩波新書・同前書)
糧秣に関しては、米軍が四月上旬に沖縄本島に兵力を集中していらい、五月中旬まで攻撃が中断していたころ、村長と会合をもち糧秣協定を結んだものだ。鶏と豚は村民が、牛は部隊がとる。イモは、わが軍が米軍の鉄条網を切断、前のほうを部隊(すでに米軍基地となっていた場所だから危険なのだ)、後方は住民と分割、協同作業を行なった。部隊全体としてほ、住民に対して糧秣の圧迫を加えたことは一度もない。一部の兵隊か空腹のあまり、部落民に食糧をねだったかもしれないが、この程度の例外はいたしかたないだろう。
私の部隊で、新海中尉をはじめ数十人の栄養失調による死者を出したことでも、食糧のない苦しさにどれだけ耐えていたか、一端がうかがえるというものではなかろうか。
「赤松大尉は、その他にも、住民を惨殺している。戦闘中捕虜になって伊江島から移住させられた住民の中から、青年男女六名のものが、赤松部隊への投降勧告の使者として派遣されたが、彼らは赤松大尉に斬り殺された。
集団自決のとき、傷を負っただけで死を免れた小嶺武則、金城幸二郎の十六歳になる二人の少年は、アメリカ軍の捕虜となって手当を受けていて、西山に避難している渡嘉敷住民に下山を勧告してくるようにいいつけられたが、途中で赤松隊に捕まり射殺された」(『沖縄県史・各諭篇7』嘉陽安男編)

住民を惨殺したというが
第一の場合、米軍の背後で(渡嘉志久)生活していた伊江島住民のなかから、男女三名ずつ歩哨線を抜けて、投降勧告にきた。女三名は取調べの田所中尉に、捕虜であることを告白したので、当時の戦陣訓の話をし、自らを処するように勧めた。帰してくれと懇願されたが、陣地内のモヨウを知っているうえに、戻れぱ家族の者もいることだし、情報がもれない保証はない。
それに陣地内におくには、先に述べたように糧秣が逼迫していて不可能だ……中尉に事情をじゅんじゅんと説かれて、最後には従容として自決したという。
男のほうは年配者だったと思う。女たちに男たちのことを聞くと、彼らは伊江島陥落のとき米軍を誘導してきた。今回も、自分たちだけで投降を勧めに行くと危いというので、女性を連れてきたという。この三名は自決に応じないので、斬刑に処した。現在流でいえば軍法会議を開くところだろうが、そんな余裕もなく、これは万やむをえなかった。
第二の場合はこうだ。二人の少年は歩哨線で捕まった。本人たちには意識されてなくとも、いったん米軍の捕虜となっている以上、どんな謀略的任務をもらっているかわからないから、部落民といっしょにはできないというので処刑することにいちおうなったが、二人のうち小嶺というのが、阿波連で私が宿舎にしていた家の息子なので、私が直接取り調ぺに出向いて行った。いろんな話を聞いたあと「ここで自決するか、阿波連に帰るかどちらかにしろ」といったら、二人は戻りたいと答えた。ところが、二人は、歩哨線のところで、米軍の電話線を切って木にかけ、首つり自殺をしてしまった。赤松隊が処刑したのではない。

投降までのいきさつ
「八月十五日、アメリカ軍は降伏勧告のピラを飛行機から撤いた。古波蔵惟好村長は意を決して集団で投降することにし、住民たちは栄養失調で疲弊し切った体を励ましあって下山してきたが、赤松隊は依然として投降勧告に応じなかった。新垣重吉、古波蔵利雄、与那嶺徳、大城牛の四名は再びアメリカ軍の命令で投降勧告に行った。捕えられぬよう用心しながら勧告文を木の枝に結びつけて帰るつもりだったが、与那嶺、大城の二人は不幸にも捕えられて殺された」(『沖縄県史』前同)
このくだりも重要な問題を含んでいる。まず村長以下住民が投降したのは、八月十二、三日の両日だったのである。だから、十五日まで村長が投降しないでいたかのように書いているのは、事実に反する。間題の二人が歩哨線に引っかかったのは十六日の朝だった。歩哨兵に誰何され逃亡しようとして射殺されたもようである。(じつは、この二名の射殺の件は、つい最近耳にしたのである)


【写真】陸軍情報隊長・塚本保次大佐による投降勧告

ボツダム宣言受諾の報であるが、十二日ころから米軍無電の傍受により、うすうすその気配は感じ取っていた。ビラやスピーカーによる宣伝も盛んで「赤松隊長は、自己の信義を重んずるのあまり、部下にむりじいしてないか!」とか「あなた方だけが慶良間の一角でがんばっても大勢には、いささかの影響もない。一分、一秒でも早く住民と部隊を解放しなさい!」とか、まくし立てる。
十五日夜七時五十分ごろ「一億一丸となって……」の声が断片的にはいり、九時過ぎの、"時事解説"に「戦後いぱらの道を……」云云のことぱが聞かれた。
十六日払暁、先の四人の投降勧告者が残していった、竹の先に結んだ手紙が届いた。――戦争は終結、隊長か代理を米軍基地まで寄こせという文面である。全将校が集合協議の結果、軍使四名を派遭することに決定。このさいの会見により、大東亜戦争の終結、連合軍への降伏は動かぬ事実となったのである。
ついで十八日、私自身が米軍指揮官と会見、無条件降伏の詳細を知り、即時投降を勧告されたが、私は「我が軍は、所属する上級指揮官の命令がなくば、武装解除に応じられない」と要求。とりあえず、停戦協定のみを締結した。
すでに沖縄本島の三十二軍司令部は、すでに崩壊したあとなので、たまたま当日、大本営派遣軍使としてマニラヘ飛ぶ途中の川辺虎四郎中将の許可をもらい、かくして二十四日の武装解除の調印のはこびとなった。

【写真】米軍との間に交わした武装解除調印式の文書

村の記録や戦記によると、私はわが身の保身に汲々とし唯々諾々として投降したごとく描写されている。私としてぽ軍人らしい規律を重んじ、最後まで徹底抗戦の用意があり、降伏も上級司令官の命の後に行なった。この点に関しては、一点のやましさもないと明言できる。
投降当時の状況を思い出してみると、軍の者も疲労しきって満足に歩けない身体で、黙黙と壕を掘り、射たれっ放しで乏しい騨薬を持って、ただただ敵の近接を待つのは(主陣地では、小銃を三十メートル以上の射程距離で射撃することを禁じた)、異常なる精神力を要したのである。このような状況下でも、犬半の村民が八月十二日に集団投降するまでは軍とともに、苦しいなかをがんばってくれたことは、ただただ感謝のほかはない。
ただ三十余名の方が、私の勧告にもかかわらず、八月二十四日の武装解除まで軍と行動をともにされ、戦後、他の村民との間になにかミゾができたかに聞く。

投降時、村に三つの色分け
結局、村には投降の時点において三つの集団ができたのだ。米軍の後方にいた伊江島の住民、十二日に投降したグループ、八月二十四日まで軍とともにあったグルーブ。
伊江島の住民の処刑のどきは、村長も取り調べの現場にいて「おまえら日本人のくせに何だ」と詰間していた。それが、戦後いっしょに生活しなくてはならなくなったあたりにも問題がありそうだ。
八月二十四日、米軍に武装解除された部隊を涙を流して送ってくれた村の人々、昨年三月慰霊祭に旧部隊のものを暖かく迎え、夜のふけるのを忘れて語り合い、なかには、島に行げなかった私に、わざわざみやげ物を持って那覇まで会いにきてくれた村民に、私はあの島の戦史や巷の戦記物にあるような憎しみや、悪意を見いだしえないのである。

沖縄のある友人からの手紙は、
「私も四月三日に渡嘉敷島に渡り、島の人々が"あのこと"に対し、どのような反響を見せるか、ただ注意深く見守っておりましたが、島の人には誰一人として貴殿に反意を持つものがいなかったことは、那覇でのあの騒ぎと対照した場合、いかにもおかしい気がして……。
ある人が村長に対し、なぜ赤松さんをご案内して来なかったのか、と詰めよる人さえあったのです。それも一人ではありません。数多くの人々がいっていたと村長はいっていました。(以下略)」
また先日、戦後のあるとき渡嘉敷で小学校長をやっていた人が、わざわざ私のところを訪ねてきて、
「赤松さんは集団自決の命令は出してない筈だ。軍が持つほとんどすぺての衛生材料(薬包帯等)を、集団自決に失敗した人たちのために使っているのだから。自分で下命しておき、そんな親切を見せるはずはないものですよ」といってくれたのである。
私の許には同様の趣旨の村民、あるいは村関係者からの手紙が数多くよせられているが、ここでは、そのひとつ当時女子青年団長だった伊礼蓉子さん(那覇市在住)の真心こもる所信を、ご紹介するにとどめておこう。
「赤松さまのことが話題にのぼる度に、ゆがんで書かれた渡嘉敷村の戦記がすべて事実に反することを証明し、その誤解をとく役目を果たさせて戴いております。
最後まで部隊と行動を共にして終戦を迎えましたが、その間、赤松さまの部隊の責任者としての御立派な行動は、私たちの敬服するところでした。(中略)村民に玉砕命令を下したとか、いろいろと風評はございますが、それは間違いで、あの時赤松さまの冷静沈着な判断によって、むしろあれだけの村民が生きのびることができたのだと申しましても決して過言ではございません。ゆがめられた戦記を読んで赤松さまを誤解している一部の反戦青年の来島反対にあい、渡嘉敷島まで行かれなかったことは、私たちをはじめ渡嘉敷の村民は心から残念に思っております」

なぜ現地調査をしないのか
村当局が戦記を村の公文書としてまとめた段階では、当事者にも、私個人をあれほどの"極悪人"に仕立てる心算はなかっただろう。ところが戦記が、マスコミの目にとまるや、事態はあれよあれよというまに急旋回、つぎつぎと刊行される沖縄関係の書物のいたるところに、赤松という大隊長が、極悪無残な鬼隊長として登場することになったのである。
ことに、左翼系の書物に、その煩向がとくに顕著だった。思想が異なり、時代のすう勢も変わったから、元陸士五十三期生の男が誹謗されるのも、運命かもしれない,いたしかたがないというものである。
だが間題は、その方法である。村の戦記の記述を一から十までウのみにし、さらに尾ヒレ手ピレをつけて、さも現揚にいて、すべてを見知っていたかのように描写する魂胆に憤激を若ぼえる。
兵士の銃を評論家のベンにたとえれぱ、事情は明白だ。ペソも凶器たりうる。「三百数十人」もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば、資料の質を問い、さらに多くの証言に傍証させるのが、ジャーナリストとしての最小限の良心ではないのか。
戦記の作者の何人かは、沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに、なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。その怠慢を責められてもしかたあるまい。彼らの書物を孫引きして、得々として"良心的"な平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしてみたい。
日本の良識を代表するといわれるA新聞に「丸々とふとった赤松大尉は女を従えて傲然と壕から出てきた」と書かれたこともある。当時の部下が皆知っているように、私は今よりもっとやせ、年齢も二十五だったから壕に女をつれこむほどの"才覚"は、みじんも持ち合わせてなかったのである。
以上を私の強弁、居なおり、傲慢ととる方もあろう。だが、ぬれぎぬをかぶぜられっ放しだった者には、このくらいの強腰がないと、かえって自己弁護も怯儒(きょうだ)のいいわけととられかねないのである。
島の方々に対しては、心から哀悼の意をささげるとともに、私が意識したにせよ、しないにせよ、海上挺進隊隊長としての「存在」じたいが、ひとつの強大な力として、住民の方々の心に強く押しかぶさっていたことはいなめない、このことを、旧軍人として心から反省するにやぶさかではないむね申し添えておきたい。
船を失った私が、任務を沖縄本島の支作戦であると解釈し、渡嘉敷島にできるだけ長く米軍を拘束しようとしたことが、あるいは卑怯なように思われ、村民にも持久防御の幸酸をなめさせてしまったことを、深くお詫びしておきたい。
どうか私のいうことも信じてほしい。私も戦争中から戦後の今日にいたるまで、戦争という巨大な"罪過"のただなかで苦しめられ、痛めつけられてきた人間なのである。ここに述べるのは、私の血の叫びであるといえば、読者諸兄は、やはり眉をひそめられるであろうか。


(編集部=文中引用してある書簡は、すぺて筆者が保管してあるものです)


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潮1971年11月号特集index

■「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(5)



■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(1)
この原稿を書いている今、私の体は痣(あざ)だらけである。私はつい一週間ほど前に、エチオピアから帰ってきたばかりである。
私の心の中には、エチオピアがマスコミのハイライトを浴びているような時に行くのは避けたい、という思いが強かった。しかし、私の遠慮とは別に、そういう時ほどわたしがそういう場所へ行くような機運が不思議と向いてくるのである。
痣はのみいと南京虫に食われた後の引っかき傷、ラバに十時間も乗って被災状況も分からぬ村に行った時に蹴られたり、岩で擦りむいた傷跡などで、実に薄汚い。
エチオピアへ行くことを決意したのは、人道主義の立場から出たことではないのである。私は作家ではあるが、作家が特に人道主義的であらねばならない、などと思ったことの一度もない人間である。ただ、私はここ数年、不思議な偶然から、韓国のハンセン病の村と、マダガスカルの小さな産院とに送る善意のお金、年間約一千万円を集めてそれを確実に送金する事務局の任務を果たす巡り合わせになってしまった。これも、私の家ですませば、印刷代もプリント代も電気代も、一切がいらないから、やっているだけのことである。
しかし、そういう経緯を知っている友人たちは、私にエチオピアの実情も知っておくように配慮してくれたのではないか、と思う。もちろんすべて自費で行ったのだが、そういう友情がなければ、とても個人が入れない土地だったのである。
エチオピアで私が入ったのは、首都のアジス・アベバから五百キロほど北に行ったスリンカというキャンプだが、そこは日本テレビの「愛は地球を救う・二十四時間テレビ」の企画によって集められたお金の一部で運営され、日本人のドクター一人と看護婦さん五人で運営されていた。
何しろ水のない土地である。野っぱらにテントが幾張りかあるだけで、水は土地の女性たちが、大きな水甕(みずがめ)でアルバイトとしてくんで来るのを、買い上げているだけである。ひところのような骨と皮ばかりの、餓死寸前にあるような子供はかなり減ったが、それでも私が夜寝袋で寝ているところから、三十メートルと離れない隔離病棟ならぬ隔離テントの中は、アメーバ赤痢とチフスと思われる重症の下痢患者ばかりである。その中の数人は血まみれの排便をし続けている。
貧しさと苦しみは人間から人間らしさを奪う。被災民たちの一つの特徴は、こうしたドクターや看護婦さんたちにも、大して感謝をしない、ということだ。それどころか、なぜもっと援助をしないか、と文句を言う人までいる。
しかしそれでもなんでもいいのである。もし、私たちの中に、戦争に対する心からの拒否の感情があれば、迷うことはない。テレビ局にお金を寄せた人々も、そこで働いている医療関係者も、ともに言葉ではなく行為でそのことを示したのである。
年月とともに戦争体験が古びて、戦争の恐ろしさがなくなる、としたら、それは戦争というものを受け止める人の心がいいかげんなのだ。私は終戦の年に十三歳にもなっていたから、戦争のことをよく知っているが、私あてにいつもお金を送って下さる人たちのほとんどは、私より若い、従って戦争体験も全くない人たちである。その人たちが、自分が不自由しても不遇な人々に尽くしたい、という素朴な善意を確実に実行してくれているのである。
第二次世界大戦が終わってから四十年が経った。ということは、あの終戦の日に、私たちが日露戦争を思い返すのと、ほぼ同じ長さの年月が経ったということである。いつまでも戦争を語り継ぐだけでもあるまい、と言えば沖縄の方々は怒られると思うが、終戦の年に生まれた子供たちがもう四十歳にもなったのである。もし大量の尊い人間の死を何かの役に立たせようとするならば、それは決して回顧だけに終わっていいものだとは私は思わない。大切なのは、そのことによって、私たちの生き方がいささかでも死者たちによって高められ、たとえほんのわずかでも現在生きている人々の生に役立つことだと思う。私自身は、エチオピアでもある日一日、疥癬(かいせん)だらけの子供たちの爪(つめ)を切ったり、トラコーマや結膜炎の患者に目薬をさす(こういう土地は野戦病院と同じで、だれでも働けるものができることをするのだ)くらいのことしかできない無能力者だが、たった一つ私にできることは、死にかけている人々に命を与えるために働いている人々のことを、世間に知らせることだ。
そういうわけで私は今、太田良博氏の「沖縄戦に“神話”はない」に反論するにもっともふさわしくない心情にいる。沖縄戦そのものは重大なことだが、太田良博氏の主張も、それに反ばくすることも、私の著作も、現在の地球的な状況の中では共(とも)にとるに足りない小さなことになりかけていると感じるからである。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(2)
あいまいな状況
もう数年も前のことである。私は那覇で一人の新聞記者のインタビューを受けた。その方は開口一番、私に、「渡嘉敷島の集団自決命令が軍によって出された、ということは、曽野さんの本によってくつがえされたことになりましたが」
と言った。
「そうでしょうか」
と私は答えた。
「私はただ、集団自殺命令が出されなかった、という証明もできない代わり、確実に出されたという証明もできない、ということを言ってるんですよ。今日にもどこかの洞窟の中から、自決命令書が出て来るかもしれないでしょう。ただ、今までのところは、一切が確実ではない、という曖昧さに私たちが耐えねばならない、ということを、私は言い続けて来ただけなんです」
私が「ある神話の背景」を書いたのは、太田良博氏が何と言われようと、太田氏の執筆責任による「沖縄戦記・鉄の暴風」の中で、赤松氏が沖縄戦の極悪人、それもその罪科が明白な血も涙もない神話的な極悪人として描かれていたことに触発されたからである。人間はそもそも間違えるものだから、赤松氏が、卑怯なところもあり、作戦の間違いもやった指揮官、という程度に太田氏が書いていたなら、正直なところ、赤松のことなど、私の注意をひかなかったと思う。
太田氏は次のような書き方もしたのだ。
「住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入り口に立ちはだかって『住民はこの壕に入るべからず』と厳しく身を構え、住民たちをにらみつけていた」
こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。 
古波蔵村長の言葉
太田氏は、渡嘉敷島の事件について取材したのは、当時の村長であった古波蔵惟好氏と宇久眞成校長であったと今回になって急に言い出したが、私が太田氏に尋ねた時には、確かな記憶がない、と言って宮平栄治氏の名前を挙げたのである。
今にして思うと、私はその時、事件をだれから取材したか記憶がない、と言った太田氏の言葉をもっと善意に解釈していた。つまりそれまで一面識もない村人に、当時太田氏が会って話を聞いたというのなら、確かにその名前をいちいち覚えていないということもあろう、と思ったのだ。しかし今度その取材先が、古波蔵村長だったと知って、私は逆に信じがたい思いである。当時、村の三役というのは、村長と校長と駐在巡査だということを、都会生活しか知らない私は沖縄で教えられたのだが、あれほどの事件を直接体験者であり、しかも村については絶対の責任のある、ナンバー・ワンの村長から聞いておきながら、だれから聞いたか思い出せなかったということがあるのだろうか。
私は生存している主な関係者には、取材の時、すべて例外なく会うように試みたから、宇久校長に会わなかったということは面会を断られたからである。そして今回太田氏が言う集団自決の命令の真相を知っているという古波蔵村長は、私と次のような会話を交わしているのである。
私「安里さん(当時の駐在巡査)を通す以外の形で、軍が直接命令するということはないんですか」
古波蔵氏「ありません」
私「じゃ全部安里さんがなさるんですね」
古波蔵氏「そうです」
私「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」
古波蔵氏「私へ来るんです」
かっこつきの引用
もしこの会話が古波蔵氏の嘘でなければ、赤松大尉が自決命令を出したことは、安里巡査には証言できても、そこにいなかった古波蔵氏には証言できないことになる。ましてや太田氏が書いたように、赤松大尉が壕の入り口に立ちはだかって住民を睨(にら)みつけた、というような場面は、かりに実際にあったとしても、古波蔵氏には証言できない。なぜなら、古波蔵氏は、私に、自分は始終村民と行を共にしていたので、その時軍と関係があったのは安里巡査だけであると言い、私もそのことを当然だと感じたことを今も記憶している。そして、私が安里氏に直接会って聞いた時、安里氏は自決命令がだされたことについては、はっきりと否定したのである。
太田氏は、「私は赤松の言葉を信用しない」というような言い方をするが、そもそも歴史を扱う者は、だれかの言葉は信用し、だれかの言葉は信用しない、などということを大見え切って言うことではないのである。また太田氏は私が赤松氏に会って「『悪人とは思えない』との印象をうけた」といかにも私が書いたような括弧づきの引用をしているが、私は自分の著書を昨日から今までひっくり返して探しているのだが、探し方が悪いのか、そういう言葉がまだ見つからない。私は書いてもいないことを括弧(かっこ)づきで引用されたくはないと思う。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(3)
ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。
太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。
もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 
赤松氏庇う理由ない
太田氏によると、古内蔵村長は直接体験者だというが、自決命令に関してもし古波蔵氏自身が証言したとしたら、それはやはり伝聞証拠なのである。なぜなら、古波蔵氏自身は、赤松大尉から自決命令を直接聞く立場にいなかった、とあの当時私に強調した。古波蔵氏は自決命令はあくまで安里巡査が伝えてくるべきものだったと言い、私もその立場を納得した。そして安里巡査は自決命令が出されたことを否認した、というのがその経緯である。
太田氏は、「『赤松証言』に曽野綾子氏は重点を置いている」と言うが、私は赤松氏とは、ほかの人ほど接触しなかった。こういう場合の当事者が何をいっても弁解だということになることは目に見えているから、私はむしろエネルギーを省きたかったのである。はっきりしておきたいのは、私が赤松氏をかばう理由は何もないということだ。私は赤松氏の親類でもない。取材の時に一度訪問したことはあるが、それ以来遺族との交渉もない。
むしろそういう意味で、太田氏こそ、この人のことは信用できる。この人のことは信用できない、という感情的な決めつけ方をしている。それは次のようである。
「この命令説の真相を知っていると思われる人物が二人いる。一人は、赤松氏の副官である知念少尉であり、一人は赤松氏と住民の間に立って連絡係の役をつとめた駐在巡査の安里喜順氏である。この二人とも、『ある神話の背景』の中で真相を語っているとはおもえない。知念は赤松と共犯者の立場にあり、安里は自決命令を伝えたなどとは言い難いので『自決命令』を否定するほうが有利なのである」
「真相」を知る二人が二人とも否定していても、なお事実は違うのだ、と言いきることが妥当かどうかは別として、太田氏のこの言葉を私は一応受け入れよう。しかしそれなら、私は改めて太田氏に問わねばならない。 
知念少尉の証言
太田氏は『鉄の暴風』の中で、前述の知念氏について次のように書いたのだ。
「日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたが、そのとき赤松大尉は『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」
太田氏にとって知念副官という人物は、どちらの顔がほんとうだったのか。しかし太田氏はご丁寧にも、『鉄の暴風』は決してうそではないのだ、と次のように今回の反論の中でも強調する。
「住民の自決をうながした自決前日の将校会議についての『鉄の暴風』の記述を曽野氏はまったくの虚構としてしりぞけている。(中略)が、あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」
つまり知念副官が赤松隊長の残虐さに慟哭したという場面も伝聞証拠ではないというなら、知念氏の内面の苦悩を書いた場面は特に知念氏自身から聞いて書いたのだろうと思うのだが、その知念氏が「真相を語っているとは思えない」と太田氏は自らいう。太田氏という人は分裂症なのだろうか。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(4)
多数の島民が証言
つい先日、ベトナム戦争の時、一人の市民をピストルで射殺した軍人の記録フィルムをテレビで見た。その軍人の名前ははっかり分かっていて、彼は今アメリカでレストランを経営しているという。
それを撮影したアメリカ人のカメラマンの発言は、しかし実にみごとなものであった。彼は自分がそのような決定的瞬間を撮ることで、その殺した側のベトナム軍人の生涯に、一生重荷を負わせてしまったことに責任を感じていた。カメラマンは、自分もあの場にいたら多分同じ事をしたろうと思うから、という意味のことを言ったのである。
これこそが、本当に人間的な言葉であろう。そしてこの赤松隊の事件を調査した時も、同じようなすばらしい言葉を、私は渡嘉敷島の人々から聞いたのだ。つまり村の青年の中にも、
「総(すべ)て戦争がやったものであえるから、そういうことはなすり合いをしたくないというのは、私の考えです。そういう教育を受けたんだし」
と私に言った人がいたのである。
太田氏は、しきりに自分は伝聞証拠ではなく、体験者からの証言で書いたと言うが、私が現実に、島の人たちから聞いた赤松氏に対する見方を、太田氏は今回も全く無視している。島の人の中には、もちろん私などには会いたくない、という人もいたはずである。しかしその半面、私の『ある神話の背景』を読んで頂ければ分かることだが、決して一人は二人ではない多数の人々が、生死を共にした赤松隊の人々に会うことや、彼らとの戦争中の体験を私に語ることを、少しも拒まなかった。 
著述業者なら盗作
彼らは集団自決のことに関しても、実に正確に、理性的に、あるがままを私に語った。はっきりしないことははっきりしないこととして、その間を見てきたような話でつなげたりはしなかった。しかしそのような人々の発言を、太田氏は全く無視する。それはあまりに失礼な態度ではないのだろうか。
太田氏は私が、渡嘉敷島の事件を証言する渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』と渡嘉敷村が出版した『渡嘉敷島における戦争の様相』の二つの資料のある部分が、太田氏の筆になる沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』からの引き写しとしか思えないことについて「この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである」と書いているが、この三つの資料に、独自の調査によって書かれたとは思えない程度の文章の類似性が見られることはどうしようもない。
もしこれが、私たち著述業者のしたことで、原作者(一番発行日が古いもの)から著作権の侵害として訴えられた場合、当然、盗作と認められる程度のものである。しかしもちろんこれを書いた人たちは、私たちのような専門家ではないし、悪意や自分の利益のためにしたことではないことも明らかなのだから、私も少しも批難するつもりはない。 
上陸は3月27日
しかし私は再び太田氏に問いたい。米軍が島に上陸した日、といえばそれはおそらく島民にとって、忘れようとしても忘れられない日であったろうが、その日を三つの資料が三つとも三月二十六日とまちがって記載するということも自然なのだろうか。初め私はこの事実に気がついた時、上陸が二十六日の夜中で、もう二十七日になっていても分からないような時刻ではないか、と思った。しかし調べてみると、上陸は三月二十七日の、午前九時〇八分から四十三分の間、つまりまぎれもない朝なのである。そのような大事な日時というものは、独自の調査をして行けば(かりに一つが、思い違いや書き間違いをしたとしても)三つがそろって誤記するということはほとんどあり得ないものなのである。
私はもはや一々太田氏の内容に反論する気になれない。初めに言ったように、私はだれに限らず、だれかが正しくて、そうでない人は、徹底して悪いのだ、という論理をただの一度もとったことがないのである。赤松氏に作戦上の問題がない、ということもない。住民も動転していた。それは私たち日本人皆が持っていた当時の判断の形式であった。
ただ、ある人間だけをよしとし、反対の立場に立つ人は悪人だとする判断は--もちろんそういう判断を好む人がいても、私はそれに対して何も言うつもりはないが--それは、そのひとはとうてい大人の判断をもって人間を見ることのできない性格なのだ、とひそかに思うだけである。なぜなら、自分がもしその立場に置かれたら、ひょっとして自分も同じことをするのではないか、と思える人と思えない人とは、善悪を超えて異人種だということを、私も長い年月の間に分かるようになったからである。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(5)
沖縄中心の考え方
私は今回、こういう企画が行われて、私の本がたとえ一冊でも多くの方々の眼にふれるようになったことを喜んでいる。安い文庫本のことだから、売れると印税が儲かる、ということではない。
数年前、『ある神話の背景』が出てしばらくした頃、私は知人にあげるために一緒に那覇市内の本屋に行って、この本を買おうとしたことがあった。しかし、本屋にはこの本がないばかりでなく、私が当の著者であることを知らない店員さんは、入荷の予定もない、とそっけなかった。知人はその本屋が「思想的に特徴のある本屋ですからね。曽野さんの本は置かないのかもしれませんね」という意味のことを言ったが、私は穏やかに前金を払って自分の文庫を取ってもらうように頼んで来たことがある。
私はかねがね、沖縄という土地が、日本のさまざまな思想から隔絶され、特に沖縄にとって口あたりの苦いものはかなり意図的に排除される傾向にあるという印象を持っていた。その結果、沖縄は、本土に比べれば、一種の全体主義的に統一された思想だけが提示される閉鎖社会だなと思うことが度々あった。
もしそうとすれば、これは危険な状況であった。沖縄の二つの新聞が心を合わせれば(あるいは特にあわせなくとも、読者の好みに合いそうな世論を保って行こうとすれば)それほど無理をしなくても世論に大きな指導力を持つ。そして市民は知らず知らずのうちに、統一された見解しかあまり眼にふれる機会がないようにさせられる。もし私が沖縄に住むなら、私は沖縄の新聞と共に必ず全国紙を一紙取るだろう、と私は思った。そうでないと、沖縄中心の物の考え方が次第に助長されるようになる。世界の中の日本、日本の中の沖縄あるいは東京、というバランス感覚がなくなるのである。 
「日の丸」と「君が代」
特に沖縄では、学校の先生の指導で、国旗も掲揚せず、一応国歌と認定されている君が代も歌わない学校が多いので、生徒たちの中には歌えない者も多いと聞かされた時には、特にその感を深くした。
日の丸と君が代はいやだ、という人は沖縄でなくてもいる。最近、社会党は君が代や日の丸を認めないという条項を綱領から外したが、党員の中にはそれを不満とする人も少なくないという。もし今の国旗と国歌に反対なら、それをできるだけ早く別のデザインの国旗と、別の歌である国歌に改変するように動くべきなのだ。しかし現在、地球上の国家で、自国の国歌や国旗に対して尊敬の態度を教えない国など、あまり聞いたことがない。
ましてや沖縄には基地問題がある。もしアメリカの軍人たちに、ここは主権が日本にある土地であり、基地があることは不自然だということを示そうとするなら、私だったら、ことあるごとに、国歌を歌い、、国旗をあげてそれをアメリカに対する一種の闘争の方法、意志の表示とするだろう。日の丸も揚がらず、国歌も聞こえない土地でどうしてここが日本だということを簡単明瞭に示すのだろう。
しかし沖縄では、一部の人たちが日の丸も君が代もだめだ、となると、子供たちが、現在国歌と認められている歌さえも歌えないような、地球的に見てもおかしな教育がまかりと追っているのだとしたら、このような偏りは、本土の学校では考えられないことである。なぜなら、社会には、常に違った考えの人がいるから、国民の選挙によって選出された議会政治の決定したことに、この次の選挙までは従う、という民主主義の原則を受け入れるほか、方法がないからである。 
ほしい冷静な態度
前にも書いたように、私の本など、実はどうでもいい。しかし大切なのは、沖縄が、もっと強烈な個性とその対立に、堂々としかも冷静に耐え、切磋琢磨し、しかし対立する思想こそ世の中を安全に動かす元だと評価する習慣を持つことである。今までのところ沖縄は失礼ながらそうではなかった。少しでも沖縄に対して批判的なものの考え方をする人は、つまり平和の敵・沖縄の敵だ、と考えるような単純さが、むしろ戦争を知っている年長の世代に多かった。
その世代が今は少しずつ、替わりかけている、と私は実感するようになっている。
だからと言って、沖縄戦の記憶が古びたのでもなく、意味を失ったのでもない。むしろ沖縄戦を直接体験しない若い世代は、沖縄の戦いを、個人やその家族の歴史または知的資産とする範囲から脱して、今はもう未来に向かって普遍化する時代に来ている。反戦が、抗議と反対運動に集約されていた時代はもう古いと私は思っている。何せ、戦いの体験を全く持たない人たちがもう四十歳なのだ。
私は、このごろ、反戦や平和というものは、口で言うものではなく、最低限黙ってそのために労働か金かをさし出すものだ、ということをしみじみ教えられた。もっと偉い人はもっと大きな犠牲を払っている。そのようなことを私にも思わせる遠い過去には、私にも私なりの生涯を決定するほどの大きな戦争の体験があったからである。
(おわり)

2007年12月8日土曜日

■大江健三郎を擁護する。女々しい日本帝国軍人の「名誉回復裁判」で……

大江健三郎を擁護する。女々しい日本帝国軍人の「名誉回復裁判」で……。
「沖縄集団自決」において「軍命令」があったか、なかったかを争う大江健三郎の『沖縄ノート』の記述をめぐる名誉毀損裁判に、訴えられている側(被告)の大江健三郎大阪地裁に出廷し、証言したようであるが、日頃の僕の「保守反動的」(笑)な言論からは意外かも知れないが、僕は、「沖縄集団自決裁判」に関しては、多くの留保をつけた上でだが、本質的には大江健三郎を擁護する。大江健三郎は法廷に出廷することを拒否していたようだが、証人喚問ということで、仕方なく出廷し、証言することになったようである。大江健三郎を嫌う一部の保守派陣営は、「大江健三郎を法廷へ引き摺りだした・・・」ことを重視して、「大成功」だとでも言いたげに喝采を叫んでいるようだが、僕には、それは、無知無学な大衆のルサンチマンの叫びであり、ただ単に不謹慎に見えるだけだ。僕には、その拍手喝采する保守陣営の背後に曽野綾子谷沢永一の顔が重なって見える。僕が、大江健三郎を擁護しなければならないと考える大きな理由もそこにある。僕は、曽野や谷沢を、文学者として、思想家として、あるいは言論人として、ほとんど無視し軽蔑し唾棄しているが、大江健三郎に対しては、まったく逆である。僕と大江健三郎とでは、明らかに政治思想や政治的立場に関しては対極にあるが、しかしだからと言って大江健三郎という文学者を軽蔑もしなければ無視もしていない。いや、むしろ、今の日本で、語るに値する数少ない文学者思想家、言論人の一人だと思っている。三島由紀夫は、生前、年齢的にも文壇生活においても後輩に当たるにもかかわらず、大江健三郎という文学者才能を評価し、畏怖し、そしてその存在に異常な関心を寄せていた。大江健三郎が、山口二矢モデルにして描いたテロリスト小説『セヴンティーン』に対しては、熱烈な賞賛の手紙大江健三郎に送っている。また、川端康成の後にノーベル賞を受賞するのは、三島自身でも他の誰かでもなく、たぶん大江健三郎だろう、と予言していたという話もある。ノーベル賞候補としては、その後、遠藤周作安部公房井上靖西脇順三郎・・・などの名前が取りざたされたこともあったが、結果は、ご承知の通り、三島由紀夫予言どおりになったのである。天才は天才を知るのである。さて、沖縄集団自決裁判であるが、昨日、大阪地裁に出廷し証言した原告の一人、当時、沖縄座間味島の守備隊長だった梅沢裕について、僕はその人格も見識も、あるいは軍人としての実績もよく知らないが、あまりいい印象を持っていない。そもそも、大江健三郎が『沖縄ノート』を書き、出版したのは、昭和45年4月(1970/4)である。執筆開始は、1969年1月である。それに対して梅沢らが原告として大江健三郎岩波書店を告訴したのは、いつか。平成17(2005)年10月28日である。35年余りの空白期間がある。このタイム・ラグは何を意味するのか。日本帝国軍人として名誉を傷つけられたと言うならば、何故、梅沢らは、『沖縄ノート』の出版直後に、告訴しなかったのか。このタイム・ラグの中に、誇りある帝国軍人にあるまじき、恥ずべき「打算」と「裏取引」はないのか。そこに、戦後民主主義に毒された「日和見主義」はないのか。多くの帝国軍人は、言うべきことも言わず、抗弁すべきことも抗弁せず、名誉回復などということを一顧だにせずに、ただ黙々と死地に赴き、そして処刑台の露と消えていったではないか。多くの将兵や民衆を「見殺し」にした上に、90歳まで、おめおめと生き延びた帝国軍人が、今更、アメリカ軍隊の強制の元に成立した戦後憲法下の裁判所に出廷し、何を証言する必要があるのか。「アメリカ軍隊の強制の元に成立した戦後憲法下の裁判所」で、自己の名誉回復をして欲しいのか。帝国軍人の仲間たちの名誉回復か。今更、何をかいわんや、である。報道によると、驚くべきことに、梅沢某は、こんな証言しているらしい。≪原告側代理人「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」。梅沢さん「資力がなかったから」。原告側代理人「裁判で訴えたいことは」。梅沢さん「自決命令なんか絶対に出していないということだ」。原告側代理人「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」。梅沢さん「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。責任はない」≫。いやはや。帝国軍人も、たかが「名誉回復」などというチンケなことのために、ここまで落ちるものなのか。≪「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」。≫と問われて、≪「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。責任はない」≫。これが士官学校出の帝国軍人の言うことか。見苦しい。幻滅である。最近、軍人を美化し、賛美する風潮があるが、とんでもない勘違いだろう。守屋元防衛次官接待事件に登場する「元自衛隊隊員」たちの無様な姿を連想するまでもなく、あるいはイラク派遣手土産参議院立候補したヒゲ隊長の軽薄ぶりを見るにつけ、今も昔も、二、三の例外を除いて、軍人なんて、ほぼみんなこんなものだろう。愛国心国家観、責任感なんて言葉だけで、実質は何もありはしない。自己保身と金銭欲と出世欲…。梅沢が、直接、自決命令を下そうと下すまいと、自らの管理指揮下にあった多数の沖縄住民が集団自決をしたという現実に、当時の現地指揮官として、≪責任はない。≫なんて、よく言えたものだ。心ある帝国軍人ならば、自決した沖縄住民に続いて、指揮官としての無能を恥じて、潔く切腹して果てるところだろう。多くの心ある帝国軍人はそうしたではないか。三島由紀夫が、市谷駐屯地のバルコニーから、檄の言葉、「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか…」を叫んだとき、それを聞きながら、罵声を浴びせ、ヘラヘラ嗤っていたのも自衛隊隊員たちだった。いずれにしろ、元帝国軍人・梅沢某の見苦しい言い訳は、倒産した会社社長が、「私には責任はありません。すへては社員が悪いんです。」(笑)と言っているようなものだろう。耄碌していないのだとすれば、ここに、日本帝国軍人の正体、見たり、である。ところで、話を大江健三郎に戻そう。大江健三郎の『沖縄ノート』を、僕は雑誌連載中から読んでいた。もちろん、単行本も買って読んだ。その前に『ヒロシマノート』も読んでいる。いわゆる大江健三郎ルポルタージュの名作二編である。実は、それまで、僕は熱狂的な大江健三郎フアンだった。もう何回も書いてきたが、僕が文学や哲学を仕事にするようになった切っ掛けは、高校生の頃読んだ大江健三郎小説である。僕は、一番、敏感な時代に大江健三郎一色の読書生活を送っていた。サルトルドストエフスキーも、そして小林秀雄江藤淳でさえ、すへては大江健三郎を読むことから始まったと言っていい。今も、大江健三郎小説エッセイも、出ると買うし、ほとんど熟読している。しかし、僕は、この二編のルポルタージュを読んだ頃、大江健三郎から離れた。ヒロシマや沖縄ををダシにして、大江健三郎が美化する反戦平和主義的なヒューマニズム嫌悪感しか感じなくなっていたからだ。とは言いながら、その後も大江健三郎のことを忘れたことはない。そして、今は、あくまでも戦後民主主義や反戦平和主義の立場を貫く思想的、学問的な一貫性には、少し、大江健三郎に同情的になっている。というより、僕は、孤立無援の戦いを継続し続けている大江健三郎を、かなり尊敬し始めている。逆に僕は、ほぼ政治的にも思想的にも似通っている最近の「保守派」には、思想的にはほぼ同じ立場にあるにもかかわらず、批判的である。最近の「保守思想」は、付和雷同型の流行思想としての「保守思想」の色が濃厚で、福田恒存小林秀雄江藤淳三島由紀夫等のような「孤立無援の保守思想家」を保守思想の代表と思っている僕には、違和感がある。この沖縄集団自決裁判への違和感も、たぶん同じ根拠に基づいている。支援団体を組織して集団で裁判闘争・・・。それこそ戦後民主主義的な左翼市民運動そのものではないのか。しかも、大江健三郎の『沖縄ノート』は、今、冷静になって読んでみると、いかにも大江健三郎らしい柔軟且つ複雑怪奇な思考をめぐらし、現在までも続く沖縄問題の本質を抉り出した、なかなかいい本であることがわかるが、集団自決裁判に集う保守派の面々にとってはバイブルらしいが、曽野や谷沢の本は、誰が読んでも明らかに駄本である。何はともあれ、その点で、保守派は決定的に負けている。さて、そこで、裁判の焦点になっている沖縄集団自決問題について、大江健三郎の『沖縄ノート』が、どう書いているかを点検してみよう。実は、大江健三郎の『沖縄ノート』には、集団自決関連の記述は、あるにはあるが、極めて少ない。しかも前半ではなく、後半も後半、最終章で、ちょっと触れているだけである。それは大騒ぎするほどの量でも内容でもない。『沖縄ノート』の主要なテーマは、当時のホットな政治問題であった沖縄返還問題(本土復帰問題)であり、それにまつわる沖縄の歴史文化論とでも言うべきものである。おそらく、この裁判の支援団体の面々も、そして外野席からこの裁判を面白おかしく眺めつつ、大江健三郎罵倒している面々も、ほとんど『沖縄ノート』を読んでいないのではないかと思われる。たぶん、大江健三郎の難解な文章と文体を、最後まで、つまり集団自決問題に触れた部分まで、読み続けられる人間は彼らの中にはいまい。ましや、この『沖縄ノート』で、名誉を傷つけられたというに至っては、まったくの言語同断であり、噴飯物であって、言いがかりもいいところだろう。なぜなら、少なくとも『沖縄ノート』に関する限り、集団自決に関わったと言う守備隊長の名前さえ記述していないのだから。しかも、大江健三郎は、問題の守備隊長が、戦友とともに、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄に赴いた話を書いた後で、続けてこう書いている、≪僕は自分が、直接かれにインタビューする機会を持たない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてなにごとかを推測しようとは思わない。むしろかれ個人は必要でない。それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわっているものをえぐりだすべくつとめるべき課題だろう。≫と。つまり、大江健三郎は、赤松ナニガシや梅沢ナニガシなど、相手にしていないのである。大江健三郎は、敗戦直後は責任追及を恐れて、口をつぐみ、静かにしていて、戦争責任の追及が手薄になる時期を見はからって、戦争責任の回避と無化を画策する日本人一般の倫理観の喪失の問題として、言い換えれば、やがて来る「歴史修正主義」的な保守派の台頭という問題の一例として、この事件を扱っているのである。僕は、必ずしも大江健三郎の「歴史修正主義」に対する分析と批判に全面的に賛成するものではないが、いや、むしろ反対の立場だが、それでも大江健三郎が、この段階で(1970)、歴史修正主義の台頭を予感し、警告していたことは、やはり大江健三郎ならではの分析であって、鋭いものだと思う。ところで、集団自決裁判被告が、何故、「大江健三郎」であり、「岩波書店」なのか。何故、「軍命令」説を最初に書籍の中で主張した沖縄タイムスの『鉄の暴風』が被告ではないのか。ここには明らかな「問題のすり替え」がある。沖縄タイムスの『鉄の暴風』が、集団自殺における「軍命令説」の情報源であると知りつつ、大江健三郎の『沖縄ノート』に問題を摩り替えたのは、何故か。そこには明らかに不純な動機が見え隠れする。それは、この集団自決の「軍命令」問題を、大江健三郎の『沖縄ノート』に触発されて現地取材し、追及したのが、大江健三郎と同世代の作家としてライバル意識をもっていたかどうか分からないが、三島由紀夫でも江藤淳でもなく、曽野綾子という作家だったことに問題がある、と僕は思う。三島由紀夫江藤淳も、保守思想家の一人として、大江健三郎と論争し、思想的に政治的に、そして文学的に対立していたが、問題を摩り替えるような卑怯な文学者ではなかった。三島由紀夫大江健三郎関係については、前述の通りだが、江藤淳大江健三郎関係について言うと、実は、文壇にデビュー仕立ての学生作家大江健三郎を熱烈に擁護し、支持したのが、同じくまだ大学生批評家としてデビューしたばかりの江藤淳だった。その後、江藤淳大江健三郎同盟関係破綻し、決裂するが、しかし、お互いに、才能と実績を認め合っていたことは言うまでもない。今、三島由紀夫でも江藤淳でもなく、曽野綾子という三流の通俗作家が、保守論壇の重鎮として保守論壇に君臨し、居座っているところに、この裁判の意味と、昨今の保守論壇の堕落と停滞が象徴的に現れている、と言っていい。僕は、政治思想的にも政治立ち位置も、大江健三郎とは遠く離れているが、大江健三郎という作家を法廷に引きずり出し、それを外野席から冷やかし半分に批判罵倒する保守論壇や保守思想家たち、あるいは保守系の野次馬たちのルサンチマンに満ち満ちた言動を容認することはできない。保守論壇や保守思想家たちは、作品や思想や、あるいは言論活動のレベルで、大江健三郎と対決し、論争すべきである、と思う。(続)



大江健三郎1
大江健三郎氏「軍命令説は正当」と主張 沖縄集団自決訴訟
2007.11.9 21:44
産経新聞
 先の
大戦末期の沖縄戦で、旧日本軍が住民に集団自決を命じたとする本の記述は誤りとして、当時の守備隊長らが、ノーベル賞作家大江健三郎氏と岩波書店損害賠償や書物の出版・販売差し止めなどを求めた訴訟口頭弁論が9日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であり、本人尋問が行われた。大江氏は「参考資料を読み、執筆者に会って話を聞き、集団自決軍隊の命令という結論に至った」と述べ、軍命令説の正当性を主張した。今回の訴訟大江氏が証言するのは初めて。  
 一方、
大江氏に先立ち尋問があった原告の一人で元座間味島守備隊長、梅沢裕さん(90)は「(自決用の弾薬などを求める住民に対し)死んではいけないと言った」と軍命令説を強く否定。もう一人の原告の元渡嘉敷島守備隊長、故赤松嘉次元大尉の弟、赤松秀一さん(74)は「大江さんは直接取材したこともないのに、兄の心の中に入り込んだ記述をし、憤りを感じた」と批判した。
 
訴訟は、来年度の高校日本史教科書検定で、集団自決を「軍の強制」とした記述を修正した根拠にもなったが、その後、教科書会社が削除された記述を復活させる訂正申請を出している。
 
大江氏は座間味、渡嘉敷両島の元守備隊長2人が直接自決を命じなかったことは認めたうえで、住民に手榴(しゅりゅう)弾が配布されたケースがあることを指摘。「当時は『官軍民共生共死』の考え方があり、住民が自決を考えないはずがない」と軍の強制があったと述べた。自著『沖縄ノート』について「強制において(集団自決が)なされたことを訂正するつもりはない」と語った。



大江健三郎2
沖縄ノート訴訟大江さん「集団自決命令あった」(読売新聞
 
沖縄戦で住民に集団自決を命じたなどと著書に虚偽を記載されて名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の元少佐・梅沢裕さん(90)ら2人が、作家大江健三郎さん(72)と岩波書店東京)に、大江さんの著書「沖縄ノート」などの出版差し止めや損害賠償を求めた訴訟の第11回口頭弁論が9日、大阪地裁(深見敏正裁判長)で開かれ、原告、被告双方の本人尋問があった。
 
大江さんは「自決命令はあったと考えているが、個人の資質、選択の結果ではなく、それよりずっと大きい、日本の軍隊が行ったものだ」と述べた。
 
大江さんは、この日の陳述や地裁に提出した陳述書で、自著で自決命令があったとした根拠について、〈1〉地元新聞社が刊行した書籍などを読んだ〈2〉書籍の執筆者らにも話を聞いた――などと説明。集団自決が行われた座間味島や渡嘉敷島を訪れるなどして生存者らから話を聞かなかったことについては「本土の若い小説家が悲劇について質問する資格を持つか自信が持てず、沖縄のジャーナリストらによる証言記録の集成に頼ることが妥当と考えた」とした。
 そのうえで、
集団自決について、日本軍から島の守備隊、島民につながる「タテの構造」の強制力でもたらされたなどと持論を展開。「個人が単独、自発的に(集団自決を)命令したとは書いていないし、個人名も記していない」として、名誉を損なったとする原告側の主張を否定した。
 梅沢さんは、
大江さんに先だって行われた尋問で、座間味島の守備隊長だった当時を振り返った。同島への米軍の空襲が始まった後の1945年3月25日の夜、自決を望んで守備隊本部を訪ねてきた地元役場の幹部ら5人から「手投げ弾をください」と言われた際、「死んだらいけない」と諭したとし、「命令は絶対に出していない」と強調した。
 閉廷後、それぞれの
弁護団記者会見した。大江さん側の弁護団は「隊長自決命令とは記述しておらず、本来、訴訟は成り立たない」と主張。原告側弁護団は「原告による命令の有無が争われているのに、大江さんは論点をすり替えた。こうした態度が名誉棄損を生む原因」とした。
 
ノーベル賞作家が出廷しただけに、この日の弁論への関心は高く、65席の一般傍聴券を求め、693人が列を作った。訴訟は12月21日の次回弁論で結審する。
大江健三郎の証言記録1
大江さんの証言要旨大阪地裁  共同通信
 
大江健三郎さんが9日、大阪地裁に提出した陳述書の要旨と尋問のやりとり要旨は次の通り。
 
 ▽陳述書要旨
 
 1965年に沖縄で収集を始めた
関係書が「沖縄ノート」を執筆する基本資料となり、ジャーナリストらから学んだことが基本態度をつくった。
 
戦後早いうちに記録された体験者の証言を集めた本を中心に読み、中でも沖縄タイムス社刊の「鉄の暴風」を大切にした。著作への信頼があり、座間味、渡嘉敷両島での集団自決の詳細に疑いを挟まなかった。
 
集団自決太平洋戦争下の日本国、日本軍、現地の軍までを貫くタテの構造の力で強制されたとの結論に至った。構造の先端の指揮官として責任があった渡嘉敷島の守備隊長戦後の沖縄に向けて取った行動について、戦中、戦後日本人の沖縄への基本態度を表現していると批判した。
 
関係者に直接インタビューはしていない。本土の若い小説家が質問する資格を持つか自信を持てなかった。守備隊長の個人名を挙げていないのは、集団自決が構造の強制力でもたらされたと考えたからだ。
 もし
隊長がタテの構造の最先端で命令に反逆し、集団自決押しとどめて悲劇を回避していたとしたら、個人名を前面に出すことが必要だった。
 
集団自決について「命令された」と括弧つきで書いた。タテの構造で押しつけられたもので、軍によって多様な形で伝えられ、手りゅう弾の配布のような実際行動によって示されたという総体を指し、命令書があるかないかというレベルのものではないと強調するためだ。
 批判したのは、1945年の悲劇を忘れ、問題化しなくなっている本土の
日本人の態度で、沖縄でも集団自決の悲惨を批判する者はいないと考えるようになっていた守備隊長の心理についてだ。
 
隊長命令説を否定する文献は知っているし、読んでもいるが、「沖縄ノート」を改訂する必要はないと考えている。
 皇民
教育を受けていた島民たちは日々、最終的な局面に至れば集団自決のほかに道はないという認識に追い詰められていた。集団自決は、既に装置された時限爆弾としての「命令」だった。無効にする新しい命令をせず、島民たちを「最後の時」に向かわせたのが渡嘉敷島の隊長の決断だ。
 座間味島の
集団自決隊長命令のあるなしは論評していない。渡嘉敷島と同様に命令があったと考える。島民たちの証言でも支えられた確信だ。
 
 ▽
やりとり要旨
 
大江さん側の弁護士
 -
日本軍隊長自決を命令したと書いたのか。
 「(
隊長の命令が)あったとは書いていない。隊長個人の性格、資質で行われたものではなく軍隊が行ったものと考え、特に個人の名前を書かなかった。その方が問題が明らかになると考えた」
 -
集団自決は軍の命令だったと考えるか。
 「文献を読み、執筆者らに話を聞いて軍の命令だという結論に至った」
 -今
現在も命令があったと考えているか。
 「確信は強くなっている」
 -記述を「
リンチ」とする批判もあるが。
 「
普通人間が軍の組織の中で罪を犯しうるというのが(本の)主題」
 -
日本軍の命令について訂正する必要は。
 「必要性は認めない」
 
(元守備
隊長側の弁護士
 -
自決命令について「軍のタテの構造で押しつけられた」と言われたが、「沖縄ノート」にはその説明がない。
 「その
言葉は使っていない」
 -守備
隊長雑誌の取材に答えた「わたしは(集団自決を)全く知らなかった」の言葉をうそと決め付けているのか。
 「
事実ではないと思っている」
 -本で
引用した「沖縄戦史」の「住民は(中略)いさぎよく自決せよ」の記述は。
 「
事実と考えている」
 -
家永三郎氏の「太平洋戦争」でも自決命令の記述の一部は削除された。軍命説は歴史家の検証に堪えられないと考えたのでは。
 「取り除かれた部分は『
沖縄ノート』に抵触することはない。わたしは本に責任があり、それを守りたい」
 -一般読者が理解できるように書くべきでは。
 「誤読に反論する文章を書こうとしている」
 
大江健三郎証言2
産経新聞
【沖縄
集団自決訴訟の詳報(4)】
大江氏「隊長が命令と書いていない。日本軍の命令だ」 (1/3ページ)
2007.11.9 20:11
 
 《午後1時50分ごろ、
大江健三郎氏が証言台に。被告側代理人の質問に答える形で、持論を展開した》
 
 
被告側代理人(以下「被」)「著書の『沖縄ノート』には3つの柱、テーマがあると聞いたが」
 
大江氏「はい。第1のテーマは本土の日本人と沖縄の人の関係について書いた。日本の近代化に伴う本土の日本人と沖縄の人の関係、本土でナショナリズムが強まるにつれて沖縄にも富国強兵の思想が強まったことなど。第2に、戦後の沖縄の苦境について。憲法が認められず、大きな基地を抱えている。そうした沖縄の人たちについて、本土の日本人が自分たちの生活の中で意識してこなかったので反省したいということです。第3は、戦後何年もたって沖縄の渡嘉敷島を守備隊長が訪れた際の現地と本土の人の反応に、第1と第2の柱で示したひずみがはっきり表れていると書き、これからの日本人世界とアジアに対して普遍的な人間であるにはどうすればいいかを考えた」
 被「日本と沖縄の在り方、その在り方を変えることができないかが
テーマか」
 
大江氏「はい」
 被「『
沖縄ノート』には『大きな裂け目』という表現が出てくるが、どういう意味か」
 
大江氏「沖縄の人が沖縄を考えたときと、本土の人が沖縄を含む日本の歴史を考えたときにできる食い違いのことを、『大きな裂け目』と呼んだ。渡嘉敷島に行った守備隊長の態度と沖縄の反応との食い違いに、まさに象徴的に表れている」
 被「『
沖縄ノート』では、隊長集団自決を命じたと書いているか」
 
大江氏「書いていない。『日本人軍隊が』と記して、命令の内容を書いているので『~という命令』とした」
 被「
日本軍の命令ということか」
 
大江氏「はい」
 被「執筆にあたり参照した資料では、
赤松さんが命令を出したと書いていたか」
 
大江氏「はい。沖縄タイムス社の沖縄戦記『鉄の暴風』にも書いていた」
【沖縄
集団自決訴訟の詳報(4)】
大江氏「隊長が命令と書いていない。日本軍の命令だ」 (2/3ページ)
2007.11.9 20:11
 
 被「なぜ『
隊長』と書かずに『軍』としたのか」
 
大江氏「この大きな事件は、ひとりの隊長の選択で行われたものではなく、軍隊の行ったことと考えていた。なので、特に注意深く個人名を書かなかった」
 被「『
責任者は(罪を)あがなっていない』と書いているが、責任者とは守備隊長のことか」
 
大江氏「そう」
 被「守備
隊長責任があると書いているのか」
 
大江氏「はい」
 被「実名を書かなかったことの趣旨は」
 
大江氏「繰り返しになるが、隊長の個人の資質、性格の問題ではなく、軍の行動の中のひとつであるということだから」
 被「渡嘉敷の守備
隊長について名前を書かなかったのは」
 
大江氏「こういう経験をした一般的な日本人という意味であり、むしろ名前を出すのは妥当ではないと考えた」
 被「渡嘉敷や座間味の
集団自決は軍の命令と考えて書いたのか」
 
大江氏「そう考えていた。『鉄の暴風』など参考資料を読んだり、執筆者に会って話を聞いた中で、軍隊の命令という結論に至った」
 被「陳述書では、
軍隊から隊長まで縦の構造があり、命令が出されたとしているが」
 
大江氏「はい。なぜ、700人を超える集団自決をあったかを考えた。まず軍の強制があった。当時、『官軍民共生共死』という考え方があり、そのもとで守備隊は行動していたからだ」
 被「戦陣訓の『生きて虜囚の辱めを受けず』という教えも、同じように浸透していたのか」
 
大江氏「私くらいの年の人間は、子供でもそう教えられた。男は戦車にひき殺されて、女は乱暴されて殺されると」
 被「沖縄でも、そういうことを聞いたか」
 
大江氏「参考資料の執筆者の仲間のほか、泊まったホテル従業員らからも聞いた」
 被「
現在のことだが、慶良間(けらま)の集団自決についても、やはり軍の命令と考えているか」
 
大江氏「そう考える。『沖縄ノート』の出版後も沖縄戦に関する書物を読んだし、この裁判が始まるころから新証言も発表されている。それらを読んで、私の確信は強くなっている」
【沖縄
集団自決訴訟の詳報(4)】
大江氏「隊長が命令と書いていない。日本軍の命令だ」 (3/3ページ)
2007.11.9 20:11
 
 被「
赤松さんが陳述書の中で、『沖縄ノート極悪人と決めつけている』と書いているが」
 
大江氏「普通人間が、大きな軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている。悪を行った人、罪を犯した人、とは書いているが、人間属性として極悪人、などという言葉は使っていない」
 被「『(
ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の中心人物で、死刑に処せられたアドルフ・)アイヒマンのように沖縄法廷で裁かれるべきだ』とあるのは、どういう意味か」
 
大江氏「沖縄の島民に対して行われてきたことは戦争犯罪で、裁かれないといけないと考えてきた」
 被「
アイヒマンと守備隊長を対比させているが、どういうつもりか」
 
大江氏「アイヒマンには、ドイツの若者たちの罪障感を引き受けようという思いがあった。しかし、守備隊長には日本の青年のために罪をぬぐおうということはない。その違いを述べたいと思った」
 被「
アイヒマンのように裁かれ、絞首刑になるべきだというのか」
 
大江氏「そうではない。アイヒマン被害者であるイスラエルの法廷で裁かれた。沖縄の人も、集団自決を行わせた日本軍を裁くべきではないかと考え、そのように書いた」
 被「
赤松さんの命令はなかったと主張する文献があるのを知っているか」
 
大江氏「知っている」
 被「軍の命令だったとか、
隊長の命令としたのを訂正する考えは」
 
大江氏「軍の命令で強制されたという事実については、訂正する必要はない」
 《
被告側代理人による質問は1時間ほどで終わった》
 このあとで、「原告側代理人」が質問をします。
【沖縄
集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」 (1/3ページ)
2007.11.9 20:49
 
 《5分の休憩をはさんで午後2時55分、審理再開。原告側代理人が質問を始めた》
 
 原告側代理人(以下「原」)「
集団自決の中止を命令できる立場にあったとすれば、赤松さんはどの場面で中止命令を出せたと考えているのか」
 
大江氏「『米軍が上陸してくる際に、軍隊のそばに島民を集めるように命令した』といくつもの書籍が示している。それは、もっとも危険な場所に島民を集めることだ。島民が自由に逃げて捕虜になる、という選択肢を与えられたはずだ」
 原「島民はどこに逃げられたというのか」
 
大江氏「実際に助かった人がいるではないか」
 原「それは無目的に逃げた結果、助かっただけではないか」
 
大江氏「逃げた場所は、そんなに珍しい場所ではない」
 原「
集団自決を止めるべきだったのはいつの時点か」
 
大江氏「『そばに来るな。どこかに逃げろ』と言えばよかった」
 原「
集団自決は予見できるものなのか」
 
大江氏「手榴(しゅりゅう)弾を手渡したときに(予見)できたはずだ。当日も20発渡している」
 原「
赤松さんは集団自決について『まったく知らなかった』と述べているが」
 
大江氏「事実ではないと思う」
 原「その根拠は」
 
大江氏「現場にいた人の証言として、『軍のすぐ近くで手榴弾により自殺したり、棒で殴り殺したりしたが、死にきれなかったため軍隊のところに来た』というのがある。こんなことがあって、どうして集団自決が起こっていたと気づかなかったのか」
 原「(
沖縄タイムス社長だった上地一史の)『沖縄戦史』を引用しているが、軍の命令は事実だと考えているのか」
 
大江氏「事実と考えている」
【沖縄
集団自決訴訟の詳報(5)完】
大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」 (2/3ページ)
2007.11.9 20:49
 
 原「
手榴弾を島民に渡したことについては、いろいろな解釈ができる。例えば、米英に捕まれば八つ裂きにされるといった風聞があったため、『1発は敵に当てて、もうひとつで死になさい』と慈悲のように言った、とも考えられないか」
 
大江氏「私には考えられない」
 原「
曽野綾子さんの『ある神話の風景』は昭和48年に発行されたが、いつ読んだか」
 
大江氏「発刊されてすぐ。出版社編集者から『大江さんを批判している部分が3カ所あるから読んでくれ』と発送された。それで、急いで通読した」
 原「本の中には『命令はなかった』という2人の証言があるが」
 
大江氏「私は、その証言は守備隊長を熱烈に弁護しようと行われたものだと思った。ニュートラルな証言とは考えなかった。なので、自分の『沖縄ノート』を検討する材料とはしなかった」
 原「
ニュートラルではないと判断した根拠は」
 
大江氏「他の人の傍証があるということがない。突出しているという点からだ」
 原「しかし、この本の後に発行された沖縄県史では、
集団自決の命令について訂正している。家永三郎さんの『太平洋戦争』でも、赤松命令説を削除している。歴史家が検証に堪えないと判断した、とは思わないか」
 
大江氏「私には(訂正や削除した)理由が分からない。今も疑問に思っている。私としては、取り除かれたものが『沖縄ノート』に書いたことに抵触するものではないと確認したので、執筆者らに疑問を呈することはしなかった
【沖縄
集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」 (3/3ページ)
2007.11.9 20:49
 
 《尋問が始まって2時間近くが経過した午後3時45分ごろ。
大江氏は慣れない法廷のせいか、「ちょっとお伺いしますが、証言の間に水を飲むことはできませんか」と発言。以後、ペットボトルを傍らに置いて証言を続けた》
 原「
赤松さんが、大江さんの本を『兄や自分を傷つけるもの』と読んだのは誤読か」
 
大江氏「内面は代弁できないが、赤松さんは『沖縄ノート』を読む前に曽野綾子さんの本を読むことで(『沖縄ノート』の)引用部分を読んだ。その後に『沖縄ノート』を読んだそうだが、難しいために読み飛ばしたという。それは、曽野綾子さんの書いた通りに読んだ、導きによって読んだ、といえる。極悪人とは私の本には書いていない」
 原「
作家は、誤読によって人を傷つけるかもしれないという配慮は必要ないのか」
 
大江氏「(傷つけるかもしれないという)予想がつくと思いますか」
 原「
責任はない、ということか」
 
大江氏「予期すれば責任も取れるが、予期できないことにどうして責任が取れるのか。責任を取るとはどういうことなのか」
 《
被告側、原告側双方の質問が終わり、最後に裁判官が質問した》
 
裁判官「1点だけお聞きします。渡嘉敷の守備隊長については具体的なエピソードが書かれているのに、座間味の隊長についてはないが」
 
大江氏「ありません。裁判が始まるまでに2つの島で集団自決があったことは知っていたが、座間味の守備隊長の行動については知らなかったので、書いていない」
 《
大江氏に対する本人尋問は午後4時前に終了。大江氏は裁判長に一礼して退き、この日の審理は終了した》
沖縄タイムスの記事より。
元戦
隊長発言転換/「自決」指示は県 強調(沖縄タイムス
 【大阪】「『
集団自決』を指示したのは、軍でなく県だ」―。九日、大阪地裁で開かれた「集団自決訴訟の本人尋問。沖縄戦時に座間味島で指揮を執った元戦隊長の梅澤裕さんは、閉廷後の記者会見で持論を展開した。尋問では「集団自決(強制集団死)」への日本軍責任を「ありません」と明言した後、「関係ないとは言えない」と軌道修正する迷走ぶり。日本軍責任を県に押し付け責任転嫁の手法に、被告側支援者は「あきれてものが言えない」と言葉を失った。
 約二年三カ月に及ぶ
訴訟はこの日、本人尋問で大詰めを迎えた。静まり返る二〇二号法廷。よわい九十の“元軍人”は背筋をぴんと伸ばして着席した。
 「
自決命令なんか絶対に出していない」「死んだらいけないと厳しく言った」
 島の住民に命令を出したかを問われ、何度も語気を強めた。
 海上挺進第一戦隊の最高指揮官を務めたが、一九四五年三月二十五日に、
日本兵が忠魂碑前で手榴弾を配ったとの今年九月に出た住民証言について「全然知らない」「あり得ないと思う」と自身の指示や関与を否定した。
 午前中の尋問では
自決命令の主体を「村の助役」としていた従来の主張から「行政側の上司の那覇あたりからの指令」と大きく飛躍。夕刻の会見では記者団に「(指示は)軍ではなく県なんだ。みんなぼかしてるけど、重大な問題だ」とし、当時の島田叡知事に責任があるとした。
 一方、
訴訟を起こすきっかけになった大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」を初めて通読したのは昨年だったことを法廷で明かした。訴訟前に大江さんや発行元の岩波書店に抗議したこともなかった。
 
大江さんの証言については、会見で「くだらん話」と一蹴。
 「
集団自決」への日本軍の強制を削除した教科書検定問題で、教科書会社から訂正申請が相次いでいることには「沖縄でワーワー大騒ぎして十一万人だとか言って、また元の悪い教科書に戻ろうという運動がどんどん出てる」と不快感を表明した。
 渡嘉敷島に駐屯した故・
赤松嘉次元戦隊長の弟の赤松秀一さんは被告側尋問で、訴訟提起のきっかけが嘉次さんの陸軍士官学校同期からの誘いだったかを問われ「そういうことになりますかね」と認め、支援者らの強い意向があったことをうかがわせた。
 渡嘉敷島での「
集団自決」を「(嘉次さんから)直接聞いたことはない」とも明らかにした。
 
被告側支援者で大阪歴史教育者協議会の小牧薫委員長は「日本軍責任を県に押し付けるつもりなのか、と昼休みに支援者と話していたところだった。今日の尋問で元戦隊長がいかに無能だったかを梅澤氏自身が証明した」と厳しく批判した。
訴訟は成り立たぬ/被告
 【大阪】「
集団自決訴訟で本人尋問が終わった九日午後、被告側代理人の弁護団が大阪司法記者クラブ記者会見した。元戦隊長らから名誉棄損で訴えられている作家大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」について、渡嘉敷島、座間味島の戦隊長の実名を挙げていないことを指摘。秋山幹男弁護士は「梅澤裕氏も隊長が命令したとは書かれていないことを認めており、訴訟として成り立たないのが実情だ」として、名誉棄損が成立していないとの認識を示した。
 
秋山弁護士は「沖縄ノート」での「集団自決(強制集団死)」記述について「日本軍―三二軍―慶良間諸島の守備隊という全体構造で、軍の命令・強制があったとの考えで書かれている」と説明。両元戦隊長を個人としてひぼう・中傷したものではないと強調した。
問題点すり替え/原告側
 【大阪】「
集団自決訴訟で原告側は九日午後、被告側代理人に続いて、大阪司法記者クラブ記者会見した。座間味島に駐屯していた梅澤裕元戦隊長は、被告作家大江健三郎さんの尋問について「要点を外してだらだら話し、何てくだらん話をするなと思って聞くのが嫌になった」と批判した。
 渡嘉敷島に駐屯していた故・
赤松嘉次元戦隊長の弟の赤松秀一さんも「本で明らかな個人攻撃をしているのに、三二軍を出して問題点すり替えをしている」と不満をあらわにした。
 原告側代理人の徳永信一
弁護士は「大江さんは軍命について軍隊による実行行動の総称としたが、『沖縄ノート』にそんなことは一言も書かれていない。私などではついていけない有名な『大江ワールド』が法廷で展開された」と皮肉った。
     ◇     ◇     ◇ 
    
支援団体、大阪で報告集会
 
沖縄戦本人尋問報告集会(主催・大江岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会ほか)が九日、大阪市内で開かれ、県内外の支援団体から約二百人が参加した。弁護団が、本人尋問の内容を報告。琉球大学山口剛史准教授が「沖縄戦真実は消せない―島ぐるみの闘い」、歴史教育者協議会の石山久男委員長が「著書が語る教科書検定問題」をテーマに講演。
 
山口准教授教科書検定問題を取り上げた県内紙を資料として配り、「県民の願いはあくまで検定意見撤回。全国に連帯の輪が広がっている。さらなる攻勢を政府文科省へとかけていきたい」と語った。
 石山
委員長は「この裁判は検定問題と連動し、計画的に行われたもの」と指摘。「責任を明らかにし、再び同じ過ちを犯さぬよう検定制度を改めてほしい」と話した。
検定
意見撤回へ全国集会を開催/来月3日東京
 
沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」から日本軍の強制を示す記述を削除させた文部科学省教科書検定意見撤回させようと「大江岩波沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会(沖縄戦首都圏の会)」は十二月三日午後六時半から、東京都の九段会館で全国集会を開く。
 
教科書会社六社から文科省に記述の訂正申請が提出される一方で、検定意見撤回に応じない文科省に対し抗議の意思を示す取り組み。千五百人規模の集会を目指し、東京沖縄県人会にも協力を呼び掛けていく。
■梅沢元守備
隊長
毅然とした態度で無実訴え 梅沢元守備
隊長
2007.11.9 12:18
産経新聞
 「
自決命令は出していない」。9日、大阪地裁で本人尋問が始まった沖縄の集団自決訴訟。住民に集団自決を命じたと記述された座間味島の元守備隊長、梅沢裕さん(90)は、毅然(きぜん)とした態度で“無実”を訴えた。確証がないのに汚名を着せられ続けた戦後60余年。高齢を押して証言台に立ったのは、自分のためだけではない。無念のまま亡くなったもう1人の元守備隊長旧日本軍、そして国の名誉を守りたい一心だった。
 地裁で最も広い202号法廷。梅沢さんはグレーの
スーツに白いシャツ姿で入廷した。終始しっかりとした口調で尋問に答え、焦点となった集団自決前の状況について問われると、「(村民に対し)弾はやれない、死んではいけないと言いました」と語気を強めた。
 梅沢さんにとって決して忘れることのできない出来事をめぐる証言だった。
米軍が座間味島に上陸する前日の昭和20年3月25日。「あの日、村民5人が来た場面は強烈な印象として残っている」という。
 大艦隊の艦砲射撃と爆撃にさらされ、本格的な
米軍との戦闘に向けて山中の陣地で将校会議を開いていた夜、村の助役ら5人が訪ねてきた。
 《いよいよ最後の時が来ました。敵が上陸したら逃げ場はありません。軍の足手まといにならないように老幼婦女子は
自決します》
 
助役らは切羽詰まった様子でそう言い、自決用の爆薬や手榴(しゆりゆう)弾などの提供を求めた。驚いた梅沢さんは即座に断り、こう言葉を返したという。
 《
自決することはない。われわれは戦うが、村民はとにかく生き延びてくれ》
 
戦後、大阪府内で会社勤めをしていた昭和33年、週刊誌に「梅沢少佐が島民に自決命令を出した」と報じられた。そして、戦後まもなく発行された沖縄戦記『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)で隊長命令説が記述され、沖縄の文献などに引用されていることを知った。
 「
お国のために戦ってきたのに、なぜ事実がねじ曲げられるのかとがく然となった。屈辱、人間不信、孤独…。人の顔を見ることが辛く、家族にも肩身の狭い思いをさせた」
 転機が訪れたのは57年。
戦没者慰霊のため座間味島を訪れた際、米軍上陸直前に会った5人のうち、唯一生き残った女性と再会。戦後集団自決隊長命令だったと述べていた女性は苦しみ続けた胸の内を吐露し、「隊長自決してはならんと明言した」と真相を証言してくれた。
 さらに62年、
助役の弟で戦後、村の援護係を務めた男性が「集団自決は兄の命令。(戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく)遺族補償を得るため隊長命令にして申請した」と述べ、梅沢さんの目の前で謝ったという。
 「彼から『島が裕福になったのは梅沢さんのおかげ』と
感謝もされた。ようやく無実が証明され、これで世間も治まるだろうと思った」
 だが、
隊長命令説は消えなかった。大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』など多くの書物や教科書、さらに映画などでも隊長命令説が描かれた。梅沢さんはいう。
 「
戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」
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■【沖縄
集団自決訴訟の詳報(1)】
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071109/trl0711091512008-n1.htm
【沖縄
集団自決訴訟の詳報(1)】
梅沢さん「とんでもないこと言うな」と拒絶 (1/4ページ)
2007.11.9 15:12
産経新聞
 沖縄の
集団自決訴訟で、9日、大阪地裁で行われた本人尋問の主なやりとりは次の通り。
 《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備
隊長だった梅沢裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅沢さんに対する本人尋問が行われた》
 原告側代理人(以下「原」)「経歴を確認します。
陸軍士官学校卒業後、従軍したのか」
 梅沢さん「はい」
 原「所属していた海上挺身(ていしん)隊第1戦隊の任務は、敵船を撃沈することか」
 梅沢さん「はい」
 原「当時はどんな装備だったか」
 梅沢さん「
短機関銃と拳銃(けんじゅう)、軍刀。それから手榴(しゅりゅう)弾もあった」
 原「この装備で陸上戦は戦えるのか」
 梅沢さん「戦えない」
 原「陸上戦は予定していたのか」
 梅沢さん「いいえ」
 原「なぜ予定していなかったのか」
 梅沢さん「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」
 原「どこに上陸してくると思っていたのか」
 梅沢さん「沖縄本島だと思っていた」
 原「
昭和20年の3月23日から空爆が始まり、手榴弾を住民に配ることを許可したのか」
 梅沢さん「していない」
 原「(
米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部は誰だったか」
 梅沢さん「村の
助役と収入役、小学校校長議員、それに女子青年団長の5人だった」
 原「5人はどんな話をしにきたのか」
 梅沢さん「『
米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」
 原「誰から言われているという話だったのか」
 梅沢さん「行政から。それで、一気に殺してくれ、そうでなければ
手榴弾をくれ、という話だった」
■【沖縄
集団自決訴訟の詳報(2)】
原「どう答えたか」
 梅沢さん「『とんでもないことを言うんじゃない。
死ぬことはない。われわれが陸戦をするから、後方に下がっていればいい』と話した」
 原「弾薬は渡したのか」
 梅沢さん「拒絶した」
 原「5人は素直に帰ったか」
 梅沢さん「
執拗(しつよう)に粘った」
 原「5人はどれくらいの時間、いたのか」
 梅沢さん「30分ぐらい。あまりしつこいから、『もう帰れ、弾はやれない』と追い返した」
 原「その後の
集団自決は予想していたか」
 梅沢さん「あんなに厳しく『死んではいけない』と言ったので、予想していなかった」
 原「
集団自決のことを知ったのはいつか」
 梅沢さん「
昭和33年の春ごろ。サンデー毎日が大々的に報道した」
 原「なぜ
集団自決が起きたのだと思うか」
 梅沢さん「
米軍が上陸してきて、サイパンのこともあるし、大変なことになると思ったのだろう」
 原「
家永三郎氏の『太平洋戦争』には『梅沢隊長の命令に背いた島民は絶食か銃殺ということになり、このため30名が生命を失った』と記述があるが」
 梅沢さん「とんでもない」
 原「島民に餓死者はいたか」
 梅沢さん「いない」
 原「隊員は」
 梅沢さん「数名いる」
 原「
集団自決を命令したと報道されて、家族はどんな様子だったか」
 梅沢さん「大変だった。妻は頭を抱え、
中学生子供学校に行くのも心配だった」
 原「村の幹部5人のうち生き残った女子
青年団長と再会したのは、どんな機会だったのか」
 梅沢さん「
昭和57年に部下を連れて座間味島に慰霊に行ったとき、飛行場に彼女が迎えにきていた」
■【沖縄
集団自決訴訟の詳報(3)】
原「団長の娘の手記には、梅沢さんは
昭和20年3月25日夜に5人が訪ねてきたことを忘れていた、と書かれているが」
 梅沢さん「そんなことはない。脳裏にしっかり入っている。大事なことを忘れるわけがない」
 原「団長以外の4人の
運命は」
 梅沢さん「
自決したと聞いた」
 原「
昭和57年に団長と再会したとき、昭和20年3月25日に訪ねてきた人と気づかなかったのか」
 梅沢さん「はい。私が覚えていたのは娘さんだったが、それから40年もたったらおばあさんになっているから」
 原「その後の団長からの
手紙には『いつも梅沢さんに済まない気持ちです。お許しくださいませ』とあるが、これはどういう意味か」
 梅沢さん「
厚生省役人が役場に来て『軍に死ね、と命令されたといえ』『村を助けるためにそう言えないのなら、村から出ていけ』といわれたそうだ。それで申し訳ないと」
 《団長は
戦後集団自決は梅沢さんの命令だったと述べていたが、その後、真相を証言した。質問は続いて、「集団自決は兄の命令だった」と述べたという助役の弟に会った経緯に移った》
 原「(
昭和62年に)助役の弟に会いに行った理由は」
 梅沢さん「うその証言をしているのは村長。何度も会ったが、いつも逃げる。今日こそ話をつけようと行ったときに『
東京にいる助役の弟が詳しいから、そこに行け』といわれたから」
 原「
助役の弟に会ったのは誰かと一緒だったか」
 梅沢さん「1人で行った」
 原「会って、あなたは何と言ったか」
 梅沢さん「村長が『あなたに聞いたら、みな分かる』と言った、と伝えた」
 原「そうしたら、何と返答したか」
 梅沢さん「『村長が許可したのなら話しましょう』という答えだった」
■【沖縄
集団自決訴訟の詳報(4)】
原「どんな話をしたのか」
 梅沢さん「『
厚生労働省に(援護の)申請をしたら、法律がない、と2回断られた。3回目のときに、軍の命令ということで申請したら許可されるかもしれないといわれ、村に帰って申請した』と話していた」
 原「軍の命令だということに対し、島民の反対はなかったのか」
 梅沢さん「当時の部隊は非常に島民と親密だったので、(村の)
長老は『気の毒だ』と反対した」
 原「その反対を
押し切ったのは誰か」
 梅沢さん「復員兵が『そんなこと言ったって大変なことになっているんだ』といって、
押し切った」
 原「
訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」
 梅沢さん「資力がなかったから」
 原「
裁判で訴えたいことは」
 梅沢さん「
自決命令なんか絶対に出していないということだ」
 原「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」
 梅沢さん「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。
責任はない」
 原「長年、
自決命令を出したといわれてきたことについて、どう思うか」
 梅沢さん「非常に悔しい思いで、長年きた」
 《原告側代理人による質問は、約40分でひとまず終了。
被告側代理人の質問に移る前に、5分ほど休憩がとられた》
■【沖縄
集団自決訴訟の詳報(4)】
【沖縄
集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任をとるとはどういうことなのか」 (1/3ページ)
2007.11.9 20:49
 《5分の休憩をはさんで午後2時55分、審理再開。原告側代理人が質問を始めた》
 原告側代理人(以下「原」)「
集団自決の中止を命令できる立場にあったとすれば、赤松さんはどの場面で中止命令を出せたと考えているのか」
 
大江氏「『米軍が上陸してくる際に、軍隊のそばに島民を集めるように命令した』といくつもの書籍が示している。それは、もっとも危険な場所に島民を集めることだ。島民が自由に逃げて捕虜になる、という選択肢を与えられたはずだ」
 原「島民はどこに逃げられたというのか」
 
大江氏「実際に助かった人がいるではないか」
 原「それは無目的に逃げた結果、助かっただけではないか」
 
大江氏「逃げた場所は、そんなに珍しい場所ではない」
 原「
集団自決を止めるべきだったのはいつの時点か」
 
大江氏「『そばに来るな。どこかに逃げろ』と言えばよかった」
 原「
集団自決は予見できるものなのか」
 
大江氏「手榴(しゅりゅう)弾を手渡したときに(予見)できたはずだ。当日も20発渡している」
 原「
赤松さんは集団自決について『まったく知らなかった』と述べているが」
 
大江氏「事実ではないと思う」
 原「その根拠は」
 
大江氏「現場にいた人の証言として、『軍のすぐ近くで手榴弾により自殺したり、棒で殴り殺したりしたが、死にきれなかったため軍隊のところに来た』というのがある。こんなことがあって、どうして集団自決が起こっていたと気づかなかったのか」
 原「(
沖縄タイムス社長だった上地一史の)『沖縄戦史』を引用しているが、軍の命令は事実だと考えているのか」
 
大江氏「事実と考えている」
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■資料
原告 梅澤裕
意見陳述書
沖縄
集団自決冤罪訴訟第1回口頭弁論平成17年10月28日
原告 梅澤裕
意見陳述書
意 見 陳 述 書 沖縄
集団自決冤罪訴訟第1回口頭弁論平成17年10月28日
一、 梅澤裕でございます。
現在、満八八歳になります。
 座間味島島民の
集団自決は私の命令によるものと報道されて以来、今日に至るまで、約半世紀にわたり、汚名に泣き、苦しんで参りました。
 それら辛酸の数々と、この
裁判に賭ける思いを、裁判官様に是非ともご理解戴きたく、この場をお借りして意見を述べさせて戴きます。
二、 
戦時中、私は、当初、昭和一四年九月から騎兵、戦車兵として従軍して参りましたが、昭和一九年一月、船舶兵への転科の命を受けました。
瀬戸内で夜間の猛訓練の後、同年九月、海上挺進第一戦隊の長となり、座間味島に入りました。
 座間味島の
人達は、当時沖縄で最も愛国的な村民で、誠心誠意の人達でありました。皆 一致団結して軍に協力して戴いたので、私達も大いに感謝し、私以下部隊は親睦に留意し、非違行為は一件もありませんでした。
昭和一九年一○月に座間味島で空襲があり、兵舎として使用していた学校が焼失し、我 々が座間味村落内に舎営し分散した際も、老人婦人方には若い兵を息子の様に大事にして戴き、双方より食料を分かち合い、甘味品を分け合いました。
この空襲の際に優秀な鰹舟が煙を発したのを見て、隊員は
危険の中を飛び込み消し止めました。之も村民に対する感謝の気持の現れに他なりません。座間味島の人達との関係は、極めて良好なものでした。
三、 
昭和二○年三月二三日、沖縄本島に先がけ座間味島に米軍の空襲が始まりました。翌二四日に猛爆が始まり、二五日は戦艦級以下大艦隊が海峡に侵入し、爆撃と艦砲射撃で島は鳴動しました。このとき壕に隠していた特攻用の舟艇は殆ど破壊されてしまいました。
問題の日は翌三月二五日のことです。夜一○時頃、戦備に
忙殺されて居た本部壕へ村の
幹部が五名来訪して来ました。
助役宮里盛秀、収入役宮平正次郎、校長玉城政助、吏員宮平恵達、女子青年団長宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。
その時の彼らの
言葉は今でも忘れることが出来ません。
1、いよいよ最後の時が来ました。お別れの
挨拶を申し上げます。
2、老幼婦女子は、予ての決心の通り、軍の足手纏いにならぬ様、又食糧を残す為
自決
します。
3、就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂
させて下さい。それが駄目なら
手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。
その
言葉を聞き、私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であった
のかと。
昭和一九年一一月三日に那覇の波の上宮で県知事以下各町村の幹部らが集結して県民決起大会が開かれ、男子は最後の一人まで戦い、老幼婦女子は軍に戦闘で迷惑をかけぬよう自決しようと決議したという経過があったのです。
私は五人に、毅然として答えました。
1、決して
自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこ たえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。
2、弾薬、爆薬は渡せない。
折しも、艦砲射撃が再開し、忠魂碑近くに落下したので、五人は帰って行きました。
四、 終
戦後、私は鹿児島の疎開先にて療養に励みましたが、座間味島の戦闘で受けた骨髄炎 の傷が癒えませんでした。左膝が曲がらなかったため、尻をついて鍬を使い、畑を耕しておりました。
五、ところが
昭和三三年頃、週刊誌に慶良間諸島の集団自決が写真入りで載り、座間味島の梅澤少佐が島民に自決命令を出したと報じられました。
私は愕然たる思いに我を失いました。そして一体どうして、このような嘘が世間に報じ
られるのかと思いました。
たちまち
我が家は、どん底の状態となりました。人の顔を見ることが辛い状態となりま
した。実際に勤めていた職場にいずらくて
仕事を辞める寸前の心境にまで追い込まれましたし、妻や二人の息子にも世間の目に気兼ねした肩身の狭い思いをさせる中で生きることになりました。
六、 以後、沖縄返還問題に絡め、
集団自決の問題はマスコミの格好の標的とされました。
テレビラジオ、新聞、雑誌などで、ありもしなかった「自決命令」のことが堂々と報
じられるとは、一体どうしたことか。座間味島の
人達と励まし合いながら、お国の為に戦って来たのに、どうして事実が捻じ曲げられて報じられるのか。どうしてそのようなことが許されるのか。
余りの屈辱と、辛さと、理不尽さに、
人間不信に陥りました。孤独の中で、人生の終わ
りを感じたことすらありました。
七、しかし、
昭和五七年六月二三日に「ざまみ会一同地蔵尊建立慰霊祭」が座間味村で行なわれた際に、私は昭和二○年三月二五日に私を訪ねた五人のたった一人の生き残りであった宮城初枝さんから「戦傷病者戦没者遺族援護の申請の際に、梅澤隊長自決命令があったと記載しましたが、それは事実ではなく梅澤隊長自決命令を出しておりません。申し訳ありません」と詫びて貰いました。
さらに
昭和六二年三月二八日には自決した宮里盛秀氏の実弟で座間味村の戦傷病者戦没者遺族の援護を担当した宮村幸延氏からは援護申請のために梅沢隊長自決命令があったと虚偽を記載して申請したことを、申し訳ありませんと詫びの念書を貰いました。
これで、世間もおさまってくれるだろうし、座間味の人の苦労を考えると
補償が得られ
、助かり、沖縄が復興するのであるから私一人が悪者になったことも意味があったかとも思いました。
ところが私に対する
事実に反する誹謗中傷はなお、やまないままでありました。
沖縄が復興し、皆が豊かになった今は私の名誉を回復したいとの思いが日々強くなりま
したが、一人ではいかんとも出来ない状態でした。
八、 しかしながら、長年の思いが実り、様々な方のご支援とご協力を得、この度ようやくこの場に立たせて頂くことが出来ました。
戦後六○年が経ち、日本は平和を取り戻しました。しかしながら、真実に反する報道が続いている限り、私自身に終戦は訪れません。理不尽なことに沈黙したまま、名誉を汚され続けた状態で人生を終えることは、正に痛恨の極みという他ないのです。
私は沖縄の復興を衷心より願っておりますが、沖縄が復興し、豊かになった今、私の名誉回復を果たし、一刻も早く心の平穏を取り戻し、
日本国民と同じ心境で、今日の平和のありがたさを心から享受したいと切に願っています。
どうか私の長年の思いをご理解戴き、踏みにじられて来た私の名誉が回復出来ますよう、切にお願い申し上げます。
平成一七年一○月二八日
梅   澤     裕
■資料2
【正論】
曽野綾子 集団自決と検定 それでも「命令」の実証なし
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 ■
戦争責任と曖昧な現実に耐えること
 ≪
大江氏の『沖縄ノート』≫
 1945年、
アメリカ軍の激しい艦砲射撃を浴びた沖縄県慶良間列島の幾つかの島で、敵の上陸を予感した島民たちが集団自決するという悲劇が起きた。渡嘉敷島では、300人を超える島民たちが、アメリカの捕虜になるよりは、という思いで、中には息子が親に手をかけるという形で自決した。そうした事件は、当時島にいた海上挺進第3戦隊隊長赤松嘉次大尉(当時)から、住民に対して自決命令が出された結果だということに、長い間なっていたのである。
 1970年、終戦から25年経った時、
赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。
 
作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし憎みもした。しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである。たとえは悪いが戦前サーカスには「さぁ、珍しい人魚だよ。生きている人魚だよ!」という呼び込み屋がいた。半分嘘(うそ)と知りつつも子供好奇心にかられて見たかったのである。それと同じ気持ちだった。
 ≪ないことを証明する困難さ≫
 これも慎みのない言い方だが、私はその
赤松隊長なる人と一切の知己関係になかった。ましてや親戚(しんせき)でも肉親でもなく、恋人でもない。その人物が善人であっても悪人であっても、どちらでもよかったのである。
 私はそれから、一人で取材を始めた。連載は
文藝春秋から発行されていた『諸君!』が引き受けてくれたが、私はノン・フィクションを手掛ける場合の私なりの原則に従ってやった。それは次のようなものである。
 (1)愚直なまでに
現場に当たって関係者から直接談話を聴き、その通りに書くこと。その場合、矛盾した供述があっても、話の辻褄(つじつま)を合わせない。
 (2)取材者を怯(おび)えさせないため、また発言と思考の自由を確保するため、できるだけ一人ずつ会う機会をつくること。
 (3)報告書の
真実を確保するため、取材の費用はすべて自費。
 今日はその結果だけを述べる。
 私は、当時実際に、
赤松隊長と接触のあった村長、駐在巡査、島民、沖縄県人の副官、赤松隊員たちから、赤松隊長が出したと世間が言う自決命令なるものを、書き付けの形であれ、口頭であれ、見た、読んだ、聞いた、伝えた、という人に一人も会わなかったのである。
 そもそも
人生では、「こうであった」という証明を出すことは比較的簡単である。しかしそのことがなかったと証明することは非常にむずかしい。しかしこの場合は、隊長から自決命令を聞いたと言った人は一人もいなかった稀(まれ)な例である。
 ≪もし
手榴弾を渡されたら≫
 この私の調査は『
集団自決の真相』(WAC社刊)として現在も出されているが(初版の題名は『或る神話の背景』)、出版後の或る時、私は連載中も散々苛(いじ)められた沖縄に行った。私は沖縄のどのマスコミにも会うつもりはなかったが、たまたま私を探して来た地元の記者は、「赤松自決命令を出したという神話は、これで否定されたことになりましたが」と言った。私は「そんなことはないでしょう。今にも新しい資料が出てくるかもしれませんよ。しかし今日まで赤松自決命令を出したという証拠がなかったということなんです。私たちは現世で、曖昧(あいまい)さに冷静に耐えなきゃならないんです」と答えた。この答えは今も全く変わっていない。
 
戦争中の日本の空気を私はよく覚えている。私は13歳で軍需工場の女子工員として働いた。軍国主義的空気に責任があるのは、軍部文部省だけではない。当時のマスコミ大本営のお先棒を担いだ張本人であった。幼い私も、本土決戦になれば、国土防衛を担う国民の一人として、2発の手榴弾しゅりゅうだん)を配られれば、1発をまず敵に向かって投げ、残りの1発で自決するというシナリオを納得していた。
 
政治家教科書会社も、戦争責任を感じるなら、現実を冷静に受け止める最低の義務がある。
(その あやこ=
作家











資料1(過去エントリー)
大江健三郎を擁護する。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071110/p1
■誰も読んでいない『沖縄ノート』。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071111/p1
■梅沢は、朝鮮人慰安婦と…。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p2
大江健三郎集団自決をどう記述したか? http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071113/p1
曽野綾子の誤読から始まった。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071118
曽野綾子と宮城晴美 http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071124
曽野綾子の「誤字」「誤読」の歴史を検証する。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071127
■「無名のネット・イナゴ=池田信夫君」の「恥の上塗り」発言http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071129
■「曽野綾子誤字・誤読事件」のてんまつ。曽野綾子が逃げた? http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071130
曽野綾子の「マサダ集団自決」と「沖縄集団自決」を比較することの愚かさについて。http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071201





資料2
大江健三郎岩波書店沖縄裁判の争点http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/souten.html
大江岩波沖縄戦裁判の支援の会・ブログhttp://okinawasen.blogspot.com/
大江岩波沖縄戦裁判支援会 http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/news.html
曽野綾子の第34回司法制度改革審議会議発言議事録 http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html
■沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/35/
大江健三郎沖縄ノート裁判訴状 http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page018.html