2007年12月23日日曜日

■「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(5)



■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(1)
この原稿を書いている今、私の体は痣(あざ)だらけである。私はつい一週間ほど前に、エチオピアから帰ってきたばかりである。
私の心の中には、エチオピアがマスコミのハイライトを浴びているような時に行くのは避けたい、という思いが強かった。しかし、私の遠慮とは別に、そういう時ほどわたしがそういう場所へ行くような機運が不思議と向いてくるのである。
痣はのみいと南京虫に食われた後の引っかき傷、ラバに十時間も乗って被災状況も分からぬ村に行った時に蹴られたり、岩で擦りむいた傷跡などで、実に薄汚い。
エチオピアへ行くことを決意したのは、人道主義の立場から出たことではないのである。私は作家ではあるが、作家が特に人道主義的であらねばならない、などと思ったことの一度もない人間である。ただ、私はここ数年、不思議な偶然から、韓国のハンセン病の村と、マダガスカルの小さな産院とに送る善意のお金、年間約一千万円を集めてそれを確実に送金する事務局の任務を果たす巡り合わせになってしまった。これも、私の家ですませば、印刷代もプリント代も電気代も、一切がいらないから、やっているだけのことである。
しかし、そういう経緯を知っている友人たちは、私にエチオピアの実情も知っておくように配慮してくれたのではないか、と思う。もちろんすべて自費で行ったのだが、そういう友情がなければ、とても個人が入れない土地だったのである。
エチオピアで私が入ったのは、首都のアジス・アベバから五百キロほど北に行ったスリンカというキャンプだが、そこは日本テレビの「愛は地球を救う・二十四時間テレビ」の企画によって集められたお金の一部で運営され、日本人のドクター一人と看護婦さん五人で運営されていた。
何しろ水のない土地である。野っぱらにテントが幾張りかあるだけで、水は土地の女性たちが、大きな水甕(みずがめ)でアルバイトとしてくんで来るのを、買い上げているだけである。ひところのような骨と皮ばかりの、餓死寸前にあるような子供はかなり減ったが、それでも私が夜寝袋で寝ているところから、三十メートルと離れない隔離病棟ならぬ隔離テントの中は、アメーバ赤痢とチフスと思われる重症の下痢患者ばかりである。その中の数人は血まみれの排便をし続けている。
貧しさと苦しみは人間から人間らしさを奪う。被災民たちの一つの特徴は、こうしたドクターや看護婦さんたちにも、大して感謝をしない、ということだ。それどころか、なぜもっと援助をしないか、と文句を言う人までいる。
しかしそれでもなんでもいいのである。もし、私たちの中に、戦争に対する心からの拒否の感情があれば、迷うことはない。テレビ局にお金を寄せた人々も、そこで働いている医療関係者も、ともに言葉ではなく行為でそのことを示したのである。
年月とともに戦争体験が古びて、戦争の恐ろしさがなくなる、としたら、それは戦争というものを受け止める人の心がいいかげんなのだ。私は終戦の年に十三歳にもなっていたから、戦争のことをよく知っているが、私あてにいつもお金を送って下さる人たちのほとんどは、私より若い、従って戦争体験も全くない人たちである。その人たちが、自分が不自由しても不遇な人々に尽くしたい、という素朴な善意を確実に実行してくれているのである。
第二次世界大戦が終わってから四十年が経った。ということは、あの終戦の日に、私たちが日露戦争を思い返すのと、ほぼ同じ長さの年月が経ったということである。いつまでも戦争を語り継ぐだけでもあるまい、と言えば沖縄の方々は怒られると思うが、終戦の年に生まれた子供たちがもう四十歳にもなったのである。もし大量の尊い人間の死を何かの役に立たせようとするならば、それは決して回顧だけに終わっていいものだとは私は思わない。大切なのは、そのことによって、私たちの生き方がいささかでも死者たちによって高められ、たとえほんのわずかでも現在生きている人々の生に役立つことだと思う。私自身は、エチオピアでもある日一日、疥癬(かいせん)だらけの子供たちの爪(つめ)を切ったり、トラコーマや結膜炎の患者に目薬をさす(こういう土地は野戦病院と同じで、だれでも働けるものができることをするのだ)くらいのことしかできない無能力者だが、たった一つ私にできることは、死にかけている人々に命を与えるために働いている人々のことを、世間に知らせることだ。
そういうわけで私は今、太田良博氏の「沖縄戦に“神話”はない」に反論するにもっともふさわしくない心情にいる。沖縄戦そのものは重大なことだが、太田良博氏の主張も、それに反ばくすることも、私の著作も、現在の地球的な状況の中では共(とも)にとるに足りない小さなことになりかけていると感じるからである。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(2)
あいまいな状況
もう数年も前のことである。私は那覇で一人の新聞記者のインタビューを受けた。その方は開口一番、私に、「渡嘉敷島の集団自決命令が軍によって出された、ということは、曽野さんの本によってくつがえされたことになりましたが」
と言った。
「そうでしょうか」
と私は答えた。
「私はただ、集団自殺命令が出されなかった、という証明もできない代わり、確実に出されたという証明もできない、ということを言ってるんですよ。今日にもどこかの洞窟の中から、自決命令書が出て来るかもしれないでしょう。ただ、今までのところは、一切が確実ではない、という曖昧さに私たちが耐えねばならない、ということを、私は言い続けて来ただけなんです」
私が「ある神話の背景」を書いたのは、太田良博氏が何と言われようと、太田氏の執筆責任による「沖縄戦記・鉄の暴風」の中で、赤松氏が沖縄戦の極悪人、それもその罪科が明白な血も涙もない神話的な極悪人として描かれていたことに触発されたからである。人間はそもそも間違えるものだから、赤松氏が、卑怯なところもあり、作戦の間違いもやった指揮官、という程度に太田氏が書いていたなら、正直なところ、赤松のことなど、私の注意をひかなかったと思う。
太田氏は次のような書き方もしたのだ。
「住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入り口に立ちはだかって『住民はこの壕に入るべからず』と厳しく身を構え、住民たちをにらみつけていた」
こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。 
古波蔵村長の言葉
太田氏は、渡嘉敷島の事件について取材したのは、当時の村長であった古波蔵惟好氏と宇久眞成校長であったと今回になって急に言い出したが、私が太田氏に尋ねた時には、確かな記憶がない、と言って宮平栄治氏の名前を挙げたのである。
今にして思うと、私はその時、事件をだれから取材したか記憶がない、と言った太田氏の言葉をもっと善意に解釈していた。つまりそれまで一面識もない村人に、当時太田氏が会って話を聞いたというのなら、確かにその名前をいちいち覚えていないということもあろう、と思ったのだ。しかし今度その取材先が、古波蔵村長だったと知って、私は逆に信じがたい思いである。当時、村の三役というのは、村長と校長と駐在巡査だということを、都会生活しか知らない私は沖縄で教えられたのだが、あれほどの事件を直接体験者であり、しかも村については絶対の責任のある、ナンバー・ワンの村長から聞いておきながら、だれから聞いたか思い出せなかったということがあるのだろうか。
私は生存している主な関係者には、取材の時、すべて例外なく会うように試みたから、宇久校長に会わなかったということは面会を断られたからである。そして今回太田氏が言う集団自決の命令の真相を知っているという古波蔵村長は、私と次のような会話を交わしているのである。
私「安里さん(当時の駐在巡査)を通す以外の形で、軍が直接命令するということはないんですか」
古波蔵氏「ありません」
私「じゃ全部安里さんがなさるんですね」
古波蔵氏「そうです」
私「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」
古波蔵氏「私へ来るんです」
かっこつきの引用
もしこの会話が古波蔵氏の嘘でなければ、赤松大尉が自決命令を出したことは、安里巡査には証言できても、そこにいなかった古波蔵氏には証言できないことになる。ましてや太田氏が書いたように、赤松大尉が壕の入り口に立ちはだかって住民を睨(にら)みつけた、というような場面は、かりに実際にあったとしても、古波蔵氏には証言できない。なぜなら、古波蔵氏は、私に、自分は始終村民と行を共にしていたので、その時軍と関係があったのは安里巡査だけであると言い、私もそのことを当然だと感じたことを今も記憶している。そして、私が安里氏に直接会って聞いた時、安里氏は自決命令がだされたことについては、はっきりと否定したのである。
太田氏は、「私は赤松の言葉を信用しない」というような言い方をするが、そもそも歴史を扱う者は、だれかの言葉は信用し、だれかの言葉は信用しない、などということを大見え切って言うことではないのである。また太田氏は私が赤松氏に会って「『悪人とは思えない』との印象をうけた」といかにも私が書いたような括弧づきの引用をしているが、私は自分の著書を昨日から今までひっくり返して探しているのだが、探し方が悪いのか、そういう言葉がまだ見つからない。私は書いてもいないことを括弧(かっこ)づきで引用されたくはないと思う。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(3)
ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。
太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。
もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 
赤松氏庇う理由ない
太田氏によると、古内蔵村長は直接体験者だというが、自決命令に関してもし古波蔵氏自身が証言したとしたら、それはやはり伝聞証拠なのである。なぜなら、古波蔵氏自身は、赤松大尉から自決命令を直接聞く立場にいなかった、とあの当時私に強調した。古波蔵氏は自決命令はあくまで安里巡査が伝えてくるべきものだったと言い、私もその立場を納得した。そして安里巡査は自決命令が出されたことを否認した、というのがその経緯である。
太田氏は、「『赤松証言』に曽野綾子氏は重点を置いている」と言うが、私は赤松氏とは、ほかの人ほど接触しなかった。こういう場合の当事者が何をいっても弁解だということになることは目に見えているから、私はむしろエネルギーを省きたかったのである。はっきりしておきたいのは、私が赤松氏をかばう理由は何もないということだ。私は赤松氏の親類でもない。取材の時に一度訪問したことはあるが、それ以来遺族との交渉もない。
むしろそういう意味で、太田氏こそ、この人のことは信用できる。この人のことは信用できない、という感情的な決めつけ方をしている。それは次のようである。
「この命令説の真相を知っていると思われる人物が二人いる。一人は、赤松氏の副官である知念少尉であり、一人は赤松氏と住民の間に立って連絡係の役をつとめた駐在巡査の安里喜順氏である。この二人とも、『ある神話の背景』の中で真相を語っているとはおもえない。知念は赤松と共犯者の立場にあり、安里は自決命令を伝えたなどとは言い難いので『自決命令』を否定するほうが有利なのである」
「真相」を知る二人が二人とも否定していても、なお事実は違うのだ、と言いきることが妥当かどうかは別として、太田氏のこの言葉を私は一応受け入れよう。しかしそれなら、私は改めて太田氏に問わねばならない。 
知念少尉の証言
太田氏は『鉄の暴風』の中で、前述の知念氏について次のように書いたのだ。
「日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたが、そのとき赤松大尉は『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」
太田氏にとって知念副官という人物は、どちらの顔がほんとうだったのか。しかし太田氏はご丁寧にも、『鉄の暴風』は決してうそではないのだ、と次のように今回の反論の中でも強調する。
「住民の自決をうながした自決前日の将校会議についての『鉄の暴風』の記述を曽野氏はまったくの虚構としてしりぞけている。(中略)が、あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」
つまり知念副官が赤松隊長の残虐さに慟哭したという場面も伝聞証拠ではないというなら、知念氏の内面の苦悩を書いた場面は特に知念氏自身から聞いて書いたのだろうと思うのだが、その知念氏が「真相を語っているとは思えない」と太田氏は自らいう。太田氏という人は分裂症なのだろうか。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(4)
多数の島民が証言
つい先日、ベトナム戦争の時、一人の市民をピストルで射殺した軍人の記録フィルムをテレビで見た。その軍人の名前ははっかり分かっていて、彼は今アメリカでレストランを経営しているという。
それを撮影したアメリカ人のカメラマンの発言は、しかし実にみごとなものであった。彼は自分がそのような決定的瞬間を撮ることで、その殺した側のベトナム軍人の生涯に、一生重荷を負わせてしまったことに責任を感じていた。カメラマンは、自分もあの場にいたら多分同じ事をしたろうと思うから、という意味のことを言ったのである。
これこそが、本当に人間的な言葉であろう。そしてこの赤松隊の事件を調査した時も、同じようなすばらしい言葉を、私は渡嘉敷島の人々から聞いたのだ。つまり村の青年の中にも、
「総(すべ)て戦争がやったものであえるから、そういうことはなすり合いをしたくないというのは、私の考えです。そういう教育を受けたんだし」
と私に言った人がいたのである。
太田氏は、しきりに自分は伝聞証拠ではなく、体験者からの証言で書いたと言うが、私が現実に、島の人たちから聞いた赤松氏に対する見方を、太田氏は今回も全く無視している。島の人の中には、もちろん私などには会いたくない、という人もいたはずである。しかしその半面、私の『ある神話の背景』を読んで頂ければ分かることだが、決して一人は二人ではない多数の人々が、生死を共にした赤松隊の人々に会うことや、彼らとの戦争中の体験を私に語ることを、少しも拒まなかった。 
著述業者なら盗作
彼らは集団自決のことに関しても、実に正確に、理性的に、あるがままを私に語った。はっきりしないことははっきりしないこととして、その間を見てきたような話でつなげたりはしなかった。しかしそのような人々の発言を、太田氏は全く無視する。それはあまりに失礼な態度ではないのだろうか。
太田氏は私が、渡嘉敷島の事件を証言する渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』と渡嘉敷村が出版した『渡嘉敷島における戦争の様相』の二つの資料のある部分が、太田氏の筆になる沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』からの引き写しとしか思えないことについて「この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである」と書いているが、この三つの資料に、独自の調査によって書かれたとは思えない程度の文章の類似性が見られることはどうしようもない。
もしこれが、私たち著述業者のしたことで、原作者(一番発行日が古いもの)から著作権の侵害として訴えられた場合、当然、盗作と認められる程度のものである。しかしもちろんこれを書いた人たちは、私たちのような専門家ではないし、悪意や自分の利益のためにしたことではないことも明らかなのだから、私も少しも批難するつもりはない。 
上陸は3月27日
しかし私は再び太田氏に問いたい。米軍が島に上陸した日、といえばそれはおそらく島民にとって、忘れようとしても忘れられない日であったろうが、その日を三つの資料が三つとも三月二十六日とまちがって記載するということも自然なのだろうか。初め私はこの事実に気がついた時、上陸が二十六日の夜中で、もう二十七日になっていても分からないような時刻ではないか、と思った。しかし調べてみると、上陸は三月二十七日の、午前九時〇八分から四十三分の間、つまりまぎれもない朝なのである。そのような大事な日時というものは、独自の調査をして行けば(かりに一つが、思い違いや書き間違いをしたとしても)三つがそろって誤記するということはほとんどあり得ないものなのである。
私はもはや一々太田氏の内容に反論する気になれない。初めに言ったように、私はだれに限らず、だれかが正しくて、そうでない人は、徹底して悪いのだ、という論理をただの一度もとったことがないのである。赤松氏に作戦上の問題がない、ということもない。住民も動転していた。それは私たち日本人皆が持っていた当時の判断の形式であった。
ただ、ある人間だけをよしとし、反対の立場に立つ人は悪人だとする判断は--もちろんそういう判断を好む人がいても、私はそれに対して何も言うつもりはないが--それは、そのひとはとうてい大人の判断をもって人間を見ることのできない性格なのだ、とひそかに思うだけである。なぜなら、自分がもしその立場に置かれたら、ひょっとして自分も同じことをするのではないか、と思える人と思えない人とは、善悪を超えて異人種だということを、私も長い年月の間に分かるようになったからである。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(5)
沖縄中心の考え方
私は今回、こういう企画が行われて、私の本がたとえ一冊でも多くの方々の眼にふれるようになったことを喜んでいる。安い文庫本のことだから、売れると印税が儲かる、ということではない。
数年前、『ある神話の背景』が出てしばらくした頃、私は知人にあげるために一緒に那覇市内の本屋に行って、この本を買おうとしたことがあった。しかし、本屋にはこの本がないばかりでなく、私が当の著者であることを知らない店員さんは、入荷の予定もない、とそっけなかった。知人はその本屋が「思想的に特徴のある本屋ですからね。曽野さんの本は置かないのかもしれませんね」という意味のことを言ったが、私は穏やかに前金を払って自分の文庫を取ってもらうように頼んで来たことがある。
私はかねがね、沖縄という土地が、日本のさまざまな思想から隔絶され、特に沖縄にとって口あたりの苦いものはかなり意図的に排除される傾向にあるという印象を持っていた。その結果、沖縄は、本土に比べれば、一種の全体主義的に統一された思想だけが提示される閉鎖社会だなと思うことが度々あった。
もしそうとすれば、これは危険な状況であった。沖縄の二つの新聞が心を合わせれば(あるいは特にあわせなくとも、読者の好みに合いそうな世論を保って行こうとすれば)それほど無理をしなくても世論に大きな指導力を持つ。そして市民は知らず知らずのうちに、統一された見解しかあまり眼にふれる機会がないようにさせられる。もし私が沖縄に住むなら、私は沖縄の新聞と共に必ず全国紙を一紙取るだろう、と私は思った。そうでないと、沖縄中心の物の考え方が次第に助長されるようになる。世界の中の日本、日本の中の沖縄あるいは東京、というバランス感覚がなくなるのである。 
「日の丸」と「君が代」
特に沖縄では、学校の先生の指導で、国旗も掲揚せず、一応国歌と認定されている君が代も歌わない学校が多いので、生徒たちの中には歌えない者も多いと聞かされた時には、特にその感を深くした。
日の丸と君が代はいやだ、という人は沖縄でなくてもいる。最近、社会党は君が代や日の丸を認めないという条項を綱領から外したが、党員の中にはそれを不満とする人も少なくないという。もし今の国旗と国歌に反対なら、それをできるだけ早く別のデザインの国旗と、別の歌である国歌に改変するように動くべきなのだ。しかし現在、地球上の国家で、自国の国歌や国旗に対して尊敬の態度を教えない国など、あまり聞いたことがない。
ましてや沖縄には基地問題がある。もしアメリカの軍人たちに、ここは主権が日本にある土地であり、基地があることは不自然だということを示そうとするなら、私だったら、ことあるごとに、国歌を歌い、、国旗をあげてそれをアメリカに対する一種の闘争の方法、意志の表示とするだろう。日の丸も揚がらず、国歌も聞こえない土地でどうしてここが日本だということを簡単明瞭に示すのだろう。
しかし沖縄では、一部の人たちが日の丸も君が代もだめだ、となると、子供たちが、現在国歌と認められている歌さえも歌えないような、地球的に見てもおかしな教育がまかりと追っているのだとしたら、このような偏りは、本土の学校では考えられないことである。なぜなら、社会には、常に違った考えの人がいるから、国民の選挙によって選出された議会政治の決定したことに、この次の選挙までは従う、という民主主義の原則を受け入れるほか、方法がないからである。 
ほしい冷静な態度
前にも書いたように、私の本など、実はどうでもいい。しかし大切なのは、沖縄が、もっと強烈な個性とその対立に、堂々としかも冷静に耐え、切磋琢磨し、しかし対立する思想こそ世の中を安全に動かす元だと評価する習慣を持つことである。今までのところ沖縄は失礼ながらそうではなかった。少しでも沖縄に対して批判的なものの考え方をする人は、つまり平和の敵・沖縄の敵だ、と考えるような単純さが、むしろ戦争を知っている年長の世代に多かった。
その世代が今は少しずつ、替わりかけている、と私は実感するようになっている。
だからと言って、沖縄戦の記憶が古びたのでもなく、意味を失ったのでもない。むしろ沖縄戦を直接体験しない若い世代は、沖縄の戦いを、個人やその家族の歴史または知的資産とする範囲から脱して、今はもう未来に向かって普遍化する時代に来ている。反戦が、抗議と反対運動に集約されていた時代はもう古いと私は思っている。何せ、戦いの体験を全く持たない人たちがもう四十歳なのだ。
私は、このごろ、反戦や平和というものは、口で言うものではなく、最低限黙ってそのために労働か金かをさし出すものだ、ということをしみじみ教えられた。もっと偉い人はもっと大きな犠牲を払っている。そのようなことを私にも思わせる遠い過去には、私にも私なりの生涯を決定するほどの大きな戦争の体験があったからである。
(おわり)

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