2007年12月23日日曜日

■太田良博の曽野綾子への再批判(沖縄タイムス)


http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/5.html
■「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(1)


手榴弾への疑問
曽野綾子さんの「お答え」を呼んで、一面、非常に満足している。渡嘉敷島の赤松問題については、だいたい白黒がはっきりしたと思うからである。というのは、私が出した、いちばん重要な問題――手榴弾が、なぜ、住民に渡されたか、同一行動(降伏勧告、逃亡)について、住民は殺され、兵隊は見逃されている事実――に関しては、なんの回答もないからである。この論争は、これでケリがついたようなものだ。他の面では、曽野さんの「お答え」には、がっかりした。もっと期待していたが、その調子が低いのには拍子抜けである。曽野さんの「お答え」にたいする答えは、あと回しにする。
まず、根本的な問題、手榴弾が住民に渡されたこと、その他について補足説明、または言及しておきたい。

▼弾薬類は兵隊の手にかんたんに渡るものではない。昭和十一年の二・二六事件で、兵は夜間演習と称して出動させることができるが、叛乱将校たちにとって最後の難問は、兵器庫の銃弾をどうして持ち出すかということだった。兵器は、中佐、少佐を長とする将校・下士官で構成される兵器委員の管理下にある。ふつう兵器庫の鍵は、兵器委員の下士官が所持している。通常の手段では、兵器委員や連隊長に企画がもれる。結局、二・二六事件の場合は、叛乱軍の少尉ほか数名が、兵器委員の下士官に暴行を加えて鍵をうばった。鍵を奪われた兵器係軍曹は、その直後、責任を感じて自決している。
作戦中は、武器弾薬の処置はさらにうるさい。手榴弾などが住民の手にかんたんに渡るはずがない。赤松隊の隊員たちは、軍律がきびしかったように言っているから、なおさらのこと、武器弾薬の管理も厳格でなければならなかったはずだ。そういう状況を考えると、大量の手榴弾が住民に渡されたということは、ただ事ではないのである。また、手榴弾のようなものは、絶対に信頼できる者でなければ渡せないものである。信頼できないものに渡したら、逆に、自分らのところに投げつけられるおそれもあるからである。
ところで、赤松は住民を信頼していない。どの住民も通敵のおそれがあるとみている。たびたびの住民処刑にそれがあらわれている。それでは、信頼していない島の住民に、なぜ手榴弾を渡したかが問題である。「これで、死ね」というので渡したこと以外のことは考えられないのである。 

一種の無理心中
▼ここで、「集団自決」という言葉について説明しておきたい。『鉄の暴風』の取材当時、渡嘉敷島の人たちはこの言葉を知らなかった。彼らがその言葉を口にするのを聞いたことがなかった。それもそのはず「集団自決」という言葉は私が考えてつけたものである。島の人たちは、当時、「玉砕」「玉砕命令」「玉砕場」などと言っていた。「集団自決」という言葉が定着化した今となって、まずいことをしたと私は思っている。この言葉が、あの事件の解釈をあやまらしているのかも知れないと思うようになったからである。
「集団自決」の「自決」という言葉は、〈自分で勝手に死んだんだ〉という印象をあたえる。そこで、〈住民が自決するのを赤松大尉が命令する筋合いでもない〉という理屈も出てくる。「集団自決」は、一種の「心中」または「無理心中」である。しかし「心中」は、習俗として、沖縄の社会では、なじまないものである。まれではあるが、自殺はある。サイパンで、沖縄の女たちが断崖から飛びこむ記録フィルムを見たことがあるが、あれは「心中」ではない。
壕の中で、赤子の泣き声が敵に聞こえると、わが子を殺した母親の話があるがそれも兵隊から強要されたからである。なかには、それができず、兵隊が赤子の首をしめた。そして、母親は気が変になったという話もある。「無理心中」は、しかも、渡嘉敷島であったような悲惨な方法による殺し合いは、沖縄では、外部からのぬきさしならぬ強制がなければ起こりえないものである。自発的におこなわれるものではない。 

目撃した米兵の証言
渡嘉敷島のあの事件は、じつは「玉砕」だったのだ。「玉砕」は、住民だけで、自発的にやるものではなく、また、やれるものでもない。「玉砕」は、軍が最後の一兵まで戦って死ぬことである。住民だけが玉砕するということはありえない。だが、結果としては、軍(赤松隊)は「玉砕」しなかった。PW(捕虜)になって生還した。軍もいっしょに玉砕するからと手りゅう弾を渡されたと思われる。いま、沖縄タイムスに連載されている米軍記録「沖縄戦日誌」の去る一月二十日の記事によると、あの住民玉砕の現場を目撃した米兵の証言がのっている。現場には日本兵が何人かいたようで、米兵は、その日本兵から射撃をうけている。
どうも、あの玉砕は、軍が強要したにおいがある。資料の発見者で翻訳者の上原正稔氏は、近く渡米して、目撃者をさがすそうである。目撃者の生存をたしかめているらしく、「さがせますか」ときくと、「そんなことわけはないですよ」という返辞だった。



■「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(2)

一日分の弾量で
▼「沖縄方面陸軍作戦」という防衛庁から出た本がある。それに、赤松隊が所持していた銃器弾薬の数量が記載されている。その数量は、赤松大尉あたりが提供した資料にもとづいたものであるはずである。また、たしか、そう書いてあったようにおぼえている。この数量をみて、いまさらのように、ああ、そうだったのかと思った。それは、一日の激戦で射ちつくせるだけの弾量でしかなかった。
その中での、住民に渡された五十何発かの手榴弾のもつ重みもわかった。住民とともに玉砕するだけの弾量しかもっていなかったのだ。それで、住民が玉砕したあと、赤松隊は「持久戦」に転じたというわけである。「持久戦」というのは、それによって、敵に軍事的な損害をあたえるための兵法の一ツの型である。たくさんの米艦船にとり囲まれた小さな渡嘉敷島で、わずかな銃弾しかもたないで、どんな損害を米兵にあたえることができただろうか。兵隊が大量に武器を持っておれば「持久戦」という言葉が使えるかも知れない。
そうでない場合、「持久戦」の「戦」はとって、「持久」とすべきである。そして、「持久」とは、「生命の持久」のことで、事実、その通りの結果になっている。兵器は、住民玉砕、住民処刑、住民威圧に使われたのだ。そして、その兵器は、降伏のとき、全部、米軍に渡している。「持久」の目的が達成されて、不要になったからである。
赤松隊陣中日誌、沖縄方面陸軍作戦、赤松隊員の証言などから降伏状況をみると、赤松大尉が部下の隊員たちより一足さきに降伏していることが、はっきりしている。赤松大尉は昭和二十年八月二十三日に投降し、部下本隊が投降したのは八月二十六日である。難破船の船長が他の船員たちより、さきに救命ボートに乗り移ったようなものである。赤松は降伏のとき、確保してあった缶詰類を米軍にプレゼントしたようだ。「ある神話の背景」をみると、兵隊たちは餓死寸前であったことが強調されている。そうであれば、残った食料は部下の兵隊たちに分けあたえるべきであった。部下の証言によると、ひと足さきに投降した赤松大尉は、米軍からもらったタバコをプカプカふかしていたようだ。 

責任逃れの赤松
▼手榴弾による住民玉砕と伊江島住民の処刑事件に対する赤松大尉の言葉から関連づけて考えられるものがある。米軍にたのまれて、赤松の陣地に降伏勧告に行って殺された伊江島住民は六名、そのうち男三名は、私が処刑を命じた、と赤松は告白している。しかし、女たちは、自決しますと言うから、鈴木少尉が自決幇助(ほうじょ)をしたのだ。つまり、自決するというから自決を助けた(斬首した)にすぎない。処刑したことにはならない、というわけである。赤松は、こんな理屈を言う。
日本の封建社会で、大名が家臣に切腹を命ずることがあった。そのばあい、切腹した者がみずから自決したのだから、命令者に責任はない。切腹したものの自害行為だったと言えるだろうか。
渡嘉敷島住民の自決について、自分に責任はないと赤松は言う。女たちを殺したのは、あれは自決幇助だったという。「住民玉砕」も、伊江島住民の処刑についての言いわけと同じ意味での自決幇助ではなかっただろうか。私は、そいう思っている。玉砕場での住民の阿鼻叫喚の声を聞いて、赤松は「あの声をしずめろ」と兵隊に言ったようだ。住民の断末魔の苦しみの声が、赤松には耳ざわりだったのだろう。苦しんで泣き叫ぶ人たちにいくら声を大にして「静かにしろ」といったってききめがあるはずがない。「あの声をしずめろ」とは、「殺せ」ということである。「ある神話の背景」では、あとで住民の玉砕を知って、赤松は、早まったことをしてくれたと言ったというのである。住民の最後の悲鳴を聞いて、「うるさい」と感じ、自分の「心の不快」を取り除くことしか考えなかった赤松に、住民にたいする思いやりがあったとはおもえない。しかし、話しには矛盾がある。 

住民を保護せず
赤松は、現に、住民の死の叫びを聞いている。だのに、あとで、そのことを知って、うんぬんというのはおかしい。「住民玉砕」の事実は、事前に知っていたはずである。手榴弾は軍から住民の手に渡されたのだから--。まさか手榴弾を米軍に投げつけなさいと言って渡したわけではあるまい。「あの声をしずめろ」(殺せ)という前に、別の言葉で、内容の同じことを言ったはずだ。
赤松隊の住民に対する態度は、〈住民は保護しない〉〈住民は米軍に投降させない〉という態度であった。住民の生きる道は、すべてふさがれていたのだ。それでも、赤松の陣地からはなれたものは助かった。赤松の陣地に接近した者たちだけが「玉砕」せざるをえない状況に追いこまれたのだ。「玉砕」と「住民処刑」は、おなじ理由、通敵のおそれがある。陣地を見たからには、という理由によるものであった。ほかの島民は「玉砕」しなかったのだ。「玉砕」は強制されたものであった。



■「土俵をまちがえた人」(太田良博・沖縄タイムス)(3)

「限定した事柄」
曽野綾子さんの「お答え」に答えることにする。まず、曽野さんのジャーナリズム批判から始めよう。「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と私は書いたのである。この文章をよく読んでみたらわかる。この文章の分析はしないことにするが、私は、一つの条件を前提として、限定した事柄について言っているのである。新聞社があやまちをおかすことはないなどとは言っていない。
曽野さんは、この文章にとびついてきた。そして、世の主婦をバカにしたような文言をはさみながら、「太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある」と、見下したようなことを言う。「鉄の暴風」で、私の書いたものが、伝聞証拠によるものだ、と曽野さんが「ある神話の背景」のなかで言うから、そうではないと言っているにすぎないのだ。それだけのことが、どうして、「ジャーナリズムに対して、想像もできない甘い態度」ということになるのか、さっぱりわからない。
私の前述の文章を、別の言葉で、具体的に言えば、新聞は、記者が取材してきたものを、デスクという関門でチェックして編集されるが、その形式が、そのまま「鉄の暴風」の執筆や編集にも移されたということである。執筆が牧港氏と私、監修が豊平良顕氏(当時、常務)、つまり、牧港氏と私は先輩記者の豊平氏に対して、豊平氏は社に対して責任をもつ、つまり、一つの関門があって、私の勝手にはできなかったということである。 

「鉄の暴風」は真実
ここでは、「鉄の暴風」が、曽野さんが言うように伝聞証拠で書かれたものか、そうでないかが重要な論争点である。「鉄の暴風」は伝聞証拠で書かれたものではない、直接体験者から聞いて書いたものだ、と私が言うと、こんどは、「新聞社の集めた直接体験者の証言なるものがあてになるか」と言い出す。子供が駄々をこねるようなことは言わないでほしい。おなじ直接体験者の証言でも、新聞社が集めたもの(「鉄の暴風」は信用できないが、自分が集めたもの(「ある神話の背景」)は信用できるのだ、と言っているのだろうか。
曽野さんは、新聞社がもち出す直接体験者の証言が、いかにアテにならないものかという引用例として、朝日新聞社の「誤報問題」なるものをもち出している。
「極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある」と、曽野さんは書いている。 

毒ガス報道論議
そのことについて、私は、こう思う。朝日の写真を一目見ただけで、それが毒ガスでないことが分かったという「おおかたの戦争体験者」の証言そのものが、怪しい。彼らが、すぐ、毒ガスかどうかが分かるということは、日本軍がたえず毒ガスを使用していたということを意味する。毒ガスはジュネーブ条約で使用を禁止されており、使用したことが分かれば世界中の批難をうける。めったに使えない化学兵器である。戦場で毒ガスを実見したものは戦場体験者でもなかなかいないのではないか。一般兵が知っているのは防毒面の着けかたぐらいのものである。毒ガスというのは、相手が使えば、こちらも、といった“準備秘密兵器”だから、兵一般が毒ガスの知識を持っているわけではない。
特別に「ガス兵」としての訓練をうける者はたしかにいた。実は、何カ月か、私はその「ガス兵」の訓練をうけたことがある。その訓練は、相手からガス攻撃をうけたときの防御措置が主なる目的であった。ほとんど忘れてしまったが、ガスの種類と、その時の空気の状況によっては、煙状のものが高く立ちのぼることがある。それでも白黒写真ではガスかどうか判定はむずかしいのではないか。また、開闊(かいかつ)地でも使えないことはない。早朝など、気流の上下交代とか、空気の密度の関係などで、目には見えないが、地上低く、天井のような空気の層ができ、煙は一定の高さ以上に上昇しないときがある。そういう場合には、ガスが使われる可能性がある。
見方軍隊が前進攻撃する前方にガス弾を射ち込むはずがないというのは、まったくの無知である。そのときは、味方の軍隊には防毒面の着用を命ずるからである。新聞を批判する側の直接体験者の証言なるものも、かならずしもあてにはならない。
朝日新聞が、はじめからガス弾でないと分かっていて、例の写真をかかげたのなら、それは「虚偽の報道」ということになる。だが、知らないで、それをガス弾の写真と信じてのせたのであれば、それは「誤報」である。
たとえ、客観的事実とはちがっていても、報道の真実からはずれているとは思えない。




■「赤松手記」ー潮1971年11月号


雑誌「潮」1971年11月号
特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか

《私記》私は自決を命令していない
"極悪無残な鬼隊長だった。といわれているが、ことの真相を事実に基き明らかにしたい

赤松 嘉次
元海上挺進第三戦隊長・肥料店経営

《私記》私は自決を命令していない
怒号のアラシの出迎え
出撃を中止した背景には
曲解された"軍命令"
住民の集結すら知らない
住民を惨殺したというが
投降までのいきさつ
投降時、村に三つの色分け
なぜ現地調査をしないのか


【写真】渡嘉敷島へ転進まえの筆者(当時23歳)

怒号のアラシの出迎え
「何しにノコノコ出てきたんだ! 今ごろになって!」
「おまえは三百人以上の沖縄県民を殺したんだぞ! 土下座してあやまれ!」
耳をふさぎたくなるほどのすさまじい怒号が、飛行機のタラップから降り、空港エプロンに向かった私を急襲した。エブロンには数多くの、抗議団と称する人々が集まっていて、口々に「人殺しを沖縄に入れるな!」「赤松帰れ!」のシュプレヒコールを、私にあびせかけてきた。
戦時中の基地であった渡嘉島で、昨年の三月二十八日行なわれるはずだった「第二十五回忌合同慰霊祭」に、島の人々に招かれて、私たち海上挺進第三戦隊の生存者の有志たちが、訪沖の第一歩をしるしたさいの出来事である。
ある程度のことは予想していたのだが、かくも激越な抗議デモに出迎えられ、モミクチャにされるとは夢想だにしなかったし、また、その後約半月にわたり、沖縄の新聞でいろいろと取りざたされたのには、驚きをいだいたというより、まったく戸惑ったというのが実感である。
それまでにも、週刊誌等に数回、私のことが取り上げられていたが、多くは興味本位的な記事であり、いかにも私が「三百有余」の島民に一方的に自決を命じたかのような内容が、沖縄の方々に深く信じられているとは、夢にも思っていなかったのである。
日本でも、戦後しばらく暴露的な読み物や映画が多く出回り、世人のヒンシュクを買ったが、しだいに生活が落ち着くとともに、それらの多くは姿を消していった。だから、渡嘉敷での私たちのことも、時日が真相を明らかにしてくれるものと信じていた。さらに、戦後、沖縄の知人との文通も途絶えがちで現地沖縄の様子もわからぬまま、慰霊祭参列のための訪沖となり、抗議デモに遭遇したのである。
私には大学にいっている娘がある。この娘が事件を知って「お父ちゃんは軍人やった。軍人なら、住民を守るのが義務じゃないか」と私に質問したことがある。そのとおりなのだ。いかにして島を死守し、最後の一兵まで戦うかに夢中だった状態のなかでも、われわれはなるべく住民を戦闘に巻き込まないように心がけた。
いまさら、弁解がましく当時のことを云々するのは本意ではないが、沖縄で"殺人鬼"なみに悪しざまに面罵され、あまつさえ娘にまで誤解されるのは、何としてもつらい。編集部からの切望もあり"誤解"されている間題点のひとつ、ひとつを以下で説明してみようと思う。
現在出回っている、おびただしい数の沖縄戦記物の多くは、一九五三年にまとめられた『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』(渡嘉敷村遺族会編)の記録をパラフレーズしている。この記録は、当時の村長だった米田惟好氏(のぷよし、旧姓、古波蔵=こはぐら)を中心に編まれたものである

出撃を中止した背景には
昭和ニ十年三月二十一日から、米軍は大空爆と艦砲射撃を加え、山は、二日も三日も燃えつづけ、火は夜空をこがした。ところが、海上挺進隊の隊長だった「赤松大尉は船の出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した」(中野好夫.新崎盛暉著『沖縄問題二十年』岩波新書)という。
私たちの海上挺進隊は、ベニヤばりのモーターポートに120キログラム爆雷二個を積み米軍船団を夜襲、体当たりを敢行する特殊部隊だった。慶良間に三隊(座間味、阿嘉の両島に第一、第二戦隊がいた)、沖縄本島に三隊の、計六戦隊が配置されていた。隊員は第三戦隊の場合、当時二十五歳だった私を長に、十六~十八歳の特別幹部候補生百四名で編成(開戦時には病気、事故などで百名を割っていた)百隻の○レ(マルレ)艇を有していた。
出撃準傭から船舶自沈にいたるまでの状況を、戦闘中、基地勤務隊の辻政弘中尉が塹壕の中で書き綴った第三戦隊『陣中日誌』に追ってみよう。

【写真】 戦闘のさなか渡嘉敷島で記した 『陣中日誌』
【引用者註】これは戦闘中塹壕の中で書き綴ったものではない。綺麗過ぎる。後に書き直したことが「ある神話の背景」にも書かれている。また、基地勤務隊が赤松大尉と同道していたかは不明といえる



「三月二十五日晴、暁と共に敵機の来襲を受く。〇九三〇敵機動部隊は巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、砲艦等約十五隻慶良間海峡に侵入、我が地上陣地、基地設備に織烈なる艦砲射撃を受く、我が方反撃する火器なきため水際陣地等に於いて夜のとばりを待つ、一七〇〇頃より敵機動部隊監視艦を残し南方洋上に退去……二〇〇〇戦隊長(赤松)出撃を考慮し、独断各(中)隊1/3の舟艇に泛水を命ずると共に本島船舶団本部に『敵情判断如何』と打電。……二一三〇船舶団本部より『敵情判断不明、慶良間の各戦隊は情況有利ならざる時は、所在の艦船を撃破しつつ那覇に転進すべし』との返電あり」
珍しい条件付きのこの本部命令は、ちよっと類がない。だが、この命令下令は、当時のことを記した軍関係の本(自衛隊保存)にも出ている。私どもが故意に、もしくは無意識的に、無線を誤読したわけではない。「戦隊長は命令を協議の上、本島転進に決し……残り2/3の泛水作業を決行……折から慶良間列島を視察中の第十一船舶団長大町茂大佐以下十五名敵戦艦の中を突破……上陸」
ところが、慶良間列島をあちこちと視察しておられた船舶団長は、この命令を知らず、上官無視だと非常に立腹された。私は敵中突破して那覇に向かう決心を述べたが、団長はなかなか同意してくれない。種々協議の結果、戦隊の主力(一個中隊欠)をもって、大佐を護送することを決定。この間の事情も『陣中日誌』に明記されている。
「三月二十六日晴、出撃準備命令(註・大佐護送のため)湾外より艦砲受け、水面にて瞬発信管により散弾飛び散り、又焼夷弾山の肌を焼く中泛水作業……敵を迎撃する基地特設隊の感情交錯し、干潮のためリーフ各所に露出、延々五時間を要し、東天既に黎明近く、白昼編隊を組んで敵機動部隊の中をベニヤ製の攻撃艇が本島に到達すること不可能なるを考え、船舶団長(大町)再び艇の収容揚陸を命ず。戦隊長(赤松)現在使用しうる人員を以てする揚陸は不可能と判断、団長に出撃命令下令を懇願せしむるも空しく……全員揚陸作業行なうも、敵機の空襲(グラマン機)を受く。茲に於て遂に涙をのんで残余六十余艇の舟艇に対し自沈を命ず」
以上で、私が生命への未練や気遅れから、身がってな"破壊命令"を出したのではないことだけは、わかってもらえると思う。

曲解された"軍命令"
次にこれまでの戦記によると、その後私は、「上陸したアメリカ軍を地上において撃減する戦法に出る、と宣言、西山A高地に部隊を集結し、さらに住民にもそこに集合するよう命令を発した。住民にとって、いまや赤松部隊は唯一無二の頼みであった、部隊の集結場所への集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合したのである。しかし赤松大尉は住民を守ってはくれなかった。『部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである」(上地一史著『沖縄戦史』時事通信社)という。
二十六日夜、大町大佐を渡嘉志久の基地から送り出したあと、私たちは山の反対斜面に本部の移動計画を立て、寝ていると、十時過ぎ、敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が「上陸はたぶん明日だ」と本部の移動を伝えると「では住民は? 往民はどうなるんですか」という。正直な話、二十六日に特攻する覚悟だった私には、住民の処置は頭になかった。そこで「部隊は西山のほうに移るから、住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と示唆した。これが軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない。

住民の集結すら知らない
しかし、村当局が、部隊の背後に隠れるのが、もっとも上策だと判断したのも、とうぜんだろう。村では、まえまえから集結する計画もあったのではないかと思われるフシもある。もちろん米軍上陸前に出撃してしまう隊長に、上陸後の村民の処置など相談する必要はなかったのであるが……。
二十七日、米軍の上陸開始、二十八日には部隊も住民も完全に包囲されてしまった。われわれの陣地のほうからは、集結した住民の姿も見えなかった。『陣中日誌』を開くと――
「三月二十八日 小雨 晴 夜雨、昨二十七日上陸したる敵は一部海岸稜線上を渡嘉志久へ、一部は我陣地北側の高地に布陣せるものの如し……昨夜出発したる各部隊夜明けと共に帰隊、道案内の現地召集隊の一部、支給しありたる手榴弾を以って家族と共に自決す。……小雨の中、敵弾激しく、住民の叫び阿修羅の如く陣地彼方に於いて自決し始めたる模様。( 筆者 註=自決は翌日判明したるものである)


【引用者註】はてさて、「住民の叫び阿修羅の如く」は翌日聞こえてきたのであろうか? それに、「住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と示唆しておきながら、「住民の結集すらしらない」というのは、「われわれはなるべく住民を戦闘に巻き込まないように心がけた」ことになるのだろうか?



 三月二十九日 曇雨 悪夢の如き様相が白日眼前に晒された、昨夜より自決したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自決後、判明)首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部を切断したる者、戦いとはいえ言葉に表し尽し得ない情景であった」とある。



【引用者註】これは、完全に自己撞着である。赤松元大尉が曽野綾子に語ったこととも矛盾している。この『従軍日誌』が後から書かれ、「様々な戦史」との辻褄合わせに苦心したものであることが窺われる。



さまざまな戦記にあるごとく、私が、自決に失敗した住民が軍の壕へ近づくと、壕の入り口で立ちふさがり、軍の壕に入るなとにらみつけたかどうか。
第一、当夜、私は住民と顔を合わせていない。前述のごとく集結していたことすら知らなかったのだ。この「住民を自決から救えなかった手ぬかり」は、私もじゅうぶんに責任を感ずるところである。ほんとうに申しわけないと思っている。
三月二十一日夜、舟艇出撃の諸準備完成を機に、私は渡嘉敷部落に帰り、村長以下村の有志と夕食をともにし、今日までの協力を感謝し、さらにこんごの協力を要請したのである。しかし、両者の意思疎通をはかるため、早くからこのような機会をもつぺきであったと反省している。
自決命令を下したあと「赤松大尉は、将校会議で『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。……』と主張したという」(岩波新書・同前書)
糧秣に関しては、米軍が四月上旬に沖縄本島に兵力を集中していらい、五月中旬まで攻撃が中断していたころ、村長と会合をもち糧秣協定を結んだものだ。鶏と豚は村民が、牛は部隊がとる。イモは、わが軍が米軍の鉄条網を切断、前のほうを部隊(すでに米軍基地となっていた場所だから危険なのだ)、後方は住民と分割、協同作業を行なった。部隊全体としてほ、住民に対して糧秣の圧迫を加えたことは一度もない。一部の兵隊か空腹のあまり、部落民に食糧をねだったかもしれないが、この程度の例外はいたしかたないだろう。
私の部隊で、新海中尉をはじめ数十人の栄養失調による死者を出したことでも、食糧のない苦しさにどれだけ耐えていたか、一端がうかがえるというものではなかろうか。
「赤松大尉は、その他にも、住民を惨殺している。戦闘中捕虜になって伊江島から移住させられた住民の中から、青年男女六名のものが、赤松部隊への投降勧告の使者として派遣されたが、彼らは赤松大尉に斬り殺された。
集団自決のとき、傷を負っただけで死を免れた小嶺武則、金城幸二郎の十六歳になる二人の少年は、アメリカ軍の捕虜となって手当を受けていて、西山に避難している渡嘉敷住民に下山を勧告してくるようにいいつけられたが、途中で赤松隊に捕まり射殺された」(『沖縄県史・各諭篇7』嘉陽安男編)

住民を惨殺したというが
第一の場合、米軍の背後で(渡嘉志久)生活していた伊江島住民のなかから、男女三名ずつ歩哨線を抜けて、投降勧告にきた。女三名は取調べの田所中尉に、捕虜であることを告白したので、当時の戦陣訓の話をし、自らを処するように勧めた。帰してくれと懇願されたが、陣地内のモヨウを知っているうえに、戻れぱ家族の者もいることだし、情報がもれない保証はない。
それに陣地内におくには、先に述べたように糧秣が逼迫していて不可能だ……中尉に事情をじゅんじゅんと説かれて、最後には従容として自決したという。
男のほうは年配者だったと思う。女たちに男たちのことを聞くと、彼らは伊江島陥落のとき米軍を誘導してきた。今回も、自分たちだけで投降を勧めに行くと危いというので、女性を連れてきたという。この三名は自決に応じないので、斬刑に処した。現在流でいえば軍法会議を開くところだろうが、そんな余裕もなく、これは万やむをえなかった。
第二の場合はこうだ。二人の少年は歩哨線で捕まった。本人たちには意識されてなくとも、いったん米軍の捕虜となっている以上、どんな謀略的任務をもらっているかわからないから、部落民といっしょにはできないというので処刑することにいちおうなったが、二人のうち小嶺というのが、阿波連で私が宿舎にしていた家の息子なので、私が直接取り調ぺに出向いて行った。いろんな話を聞いたあと「ここで自決するか、阿波連に帰るかどちらかにしろ」といったら、二人は戻りたいと答えた。ところが、二人は、歩哨線のところで、米軍の電話線を切って木にかけ、首つり自殺をしてしまった。赤松隊が処刑したのではない。

投降までのいきさつ
「八月十五日、アメリカ軍は降伏勧告のピラを飛行機から撤いた。古波蔵惟好村長は意を決して集団で投降することにし、住民たちは栄養失調で疲弊し切った体を励ましあって下山してきたが、赤松隊は依然として投降勧告に応じなかった。新垣重吉、古波蔵利雄、与那嶺徳、大城牛の四名は再びアメリカ軍の命令で投降勧告に行った。捕えられぬよう用心しながら勧告文を木の枝に結びつけて帰るつもりだったが、与那嶺、大城の二人は不幸にも捕えられて殺された」(『沖縄県史』前同)
このくだりも重要な問題を含んでいる。まず村長以下住民が投降したのは、八月十二、三日の両日だったのである。だから、十五日まで村長が投降しないでいたかのように書いているのは、事実に反する。間題の二人が歩哨線に引っかかったのは十六日の朝だった。歩哨兵に誰何され逃亡しようとして射殺されたもようである。(じつは、この二名の射殺の件は、つい最近耳にしたのである)


【写真】陸軍情報隊長・塚本保次大佐による投降勧告

ボツダム宣言受諾の報であるが、十二日ころから米軍無電の傍受により、うすうすその気配は感じ取っていた。ビラやスピーカーによる宣伝も盛んで「赤松隊長は、自己の信義を重んずるのあまり、部下にむりじいしてないか!」とか「あなた方だけが慶良間の一角でがんばっても大勢には、いささかの影響もない。一分、一秒でも早く住民と部隊を解放しなさい!」とか、まくし立てる。
十五日夜七時五十分ごろ「一億一丸となって……」の声が断片的にはいり、九時過ぎの、"時事解説"に「戦後いぱらの道を……」云云のことぱが聞かれた。
十六日払暁、先の四人の投降勧告者が残していった、竹の先に結んだ手紙が届いた。――戦争は終結、隊長か代理を米軍基地まで寄こせという文面である。全将校が集合協議の結果、軍使四名を派遭することに決定。このさいの会見により、大東亜戦争の終結、連合軍への降伏は動かぬ事実となったのである。
ついで十八日、私自身が米軍指揮官と会見、無条件降伏の詳細を知り、即時投降を勧告されたが、私は「我が軍は、所属する上級指揮官の命令がなくば、武装解除に応じられない」と要求。とりあえず、停戦協定のみを締結した。
すでに沖縄本島の三十二軍司令部は、すでに崩壊したあとなので、たまたま当日、大本営派遣軍使としてマニラヘ飛ぶ途中の川辺虎四郎中将の許可をもらい、かくして二十四日の武装解除の調印のはこびとなった。

【写真】米軍との間に交わした武装解除調印式の文書

村の記録や戦記によると、私はわが身の保身に汲々とし唯々諾々として投降したごとく描写されている。私としてぽ軍人らしい規律を重んじ、最後まで徹底抗戦の用意があり、降伏も上級司令官の命の後に行なった。この点に関しては、一点のやましさもないと明言できる。
投降当時の状況を思い出してみると、軍の者も疲労しきって満足に歩けない身体で、黙黙と壕を掘り、射たれっ放しで乏しい騨薬を持って、ただただ敵の近接を待つのは(主陣地では、小銃を三十メートル以上の射程距離で射撃することを禁じた)、異常なる精神力を要したのである。このような状況下でも、犬半の村民が八月十二日に集団投降するまでは軍とともに、苦しいなかをがんばってくれたことは、ただただ感謝のほかはない。
ただ三十余名の方が、私の勧告にもかかわらず、八月二十四日の武装解除まで軍と行動をともにされ、戦後、他の村民との間になにかミゾができたかに聞く。

投降時、村に三つの色分け
結局、村には投降の時点において三つの集団ができたのだ。米軍の後方にいた伊江島の住民、十二日に投降したグループ、八月二十四日まで軍とともにあったグルーブ。
伊江島の住民の処刑のどきは、村長も取り調べの現場にいて「おまえら日本人のくせに何だ」と詰間していた。それが、戦後いっしょに生活しなくてはならなくなったあたりにも問題がありそうだ。
八月二十四日、米軍に武装解除された部隊を涙を流して送ってくれた村の人々、昨年三月慰霊祭に旧部隊のものを暖かく迎え、夜のふけるのを忘れて語り合い、なかには、島に行げなかった私に、わざわざみやげ物を持って那覇まで会いにきてくれた村民に、私はあの島の戦史や巷の戦記物にあるような憎しみや、悪意を見いだしえないのである。

沖縄のある友人からの手紙は、
「私も四月三日に渡嘉敷島に渡り、島の人々が"あのこと"に対し、どのような反響を見せるか、ただ注意深く見守っておりましたが、島の人には誰一人として貴殿に反意を持つものがいなかったことは、那覇でのあの騒ぎと対照した場合、いかにもおかしい気がして……。
ある人が村長に対し、なぜ赤松さんをご案内して来なかったのか、と詰めよる人さえあったのです。それも一人ではありません。数多くの人々がいっていたと村長はいっていました。(以下略)」
また先日、戦後のあるとき渡嘉敷で小学校長をやっていた人が、わざわざ私のところを訪ねてきて、
「赤松さんは集団自決の命令は出してない筈だ。軍が持つほとんどすぺての衛生材料(薬包帯等)を、集団自決に失敗した人たちのために使っているのだから。自分で下命しておき、そんな親切を見せるはずはないものですよ」といってくれたのである。
私の許には同様の趣旨の村民、あるいは村関係者からの手紙が数多くよせられているが、ここでは、そのひとつ当時女子青年団長だった伊礼蓉子さん(那覇市在住)の真心こもる所信を、ご紹介するにとどめておこう。
「赤松さまのことが話題にのぼる度に、ゆがんで書かれた渡嘉敷村の戦記がすべて事実に反することを証明し、その誤解をとく役目を果たさせて戴いております。
最後まで部隊と行動を共にして終戦を迎えましたが、その間、赤松さまの部隊の責任者としての御立派な行動は、私たちの敬服するところでした。(中略)村民に玉砕命令を下したとか、いろいろと風評はございますが、それは間違いで、あの時赤松さまの冷静沈着な判断によって、むしろあれだけの村民が生きのびることができたのだと申しましても決して過言ではございません。ゆがめられた戦記を読んで赤松さまを誤解している一部の反戦青年の来島反対にあい、渡嘉敷島まで行かれなかったことは、私たちをはじめ渡嘉敷の村民は心から残念に思っております」

なぜ現地調査をしないのか
村当局が戦記を村の公文書としてまとめた段階では、当事者にも、私個人をあれほどの"極悪人"に仕立てる心算はなかっただろう。ところが戦記が、マスコミの目にとまるや、事態はあれよあれよというまに急旋回、つぎつぎと刊行される沖縄関係の書物のいたるところに、赤松という大隊長が、極悪無残な鬼隊長として登場することになったのである。
ことに、左翼系の書物に、その煩向がとくに顕著だった。思想が異なり、時代のすう勢も変わったから、元陸士五十三期生の男が誹謗されるのも、運命かもしれない,いたしかたがないというものである。
だが間題は、その方法である。村の戦記の記述を一から十までウのみにし、さらに尾ヒレ手ピレをつけて、さも現揚にいて、すべてを見知っていたかのように描写する魂胆に憤激を若ぼえる。
兵士の銃を評論家のベンにたとえれぱ、事情は明白だ。ペソも凶器たりうる。「三百数十人」もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば、資料の質を問い、さらに多くの証言に傍証させるのが、ジャーナリストとしての最小限の良心ではないのか。
戦記の作者の何人かは、沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに、なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。その怠慢を責められてもしかたあるまい。彼らの書物を孫引きして、得々として"良心的"な平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしてみたい。
日本の良識を代表するといわれるA新聞に「丸々とふとった赤松大尉は女を従えて傲然と壕から出てきた」と書かれたこともある。当時の部下が皆知っているように、私は今よりもっとやせ、年齢も二十五だったから壕に女をつれこむほどの"才覚"は、みじんも持ち合わせてなかったのである。
以上を私の強弁、居なおり、傲慢ととる方もあろう。だが、ぬれぎぬをかぶぜられっ放しだった者には、このくらいの強腰がないと、かえって自己弁護も怯儒(きょうだ)のいいわけととられかねないのである。
島の方々に対しては、心から哀悼の意をささげるとともに、私が意識したにせよ、しないにせよ、海上挺進隊隊長としての「存在」じたいが、ひとつの強大な力として、住民の方々の心に強く押しかぶさっていたことはいなめない、このことを、旧軍人として心から反省するにやぶさかではないむね申し添えておきたい。
船を失った私が、任務を沖縄本島の支作戦であると解釈し、渡嘉敷島にできるだけ長く米軍を拘束しようとしたことが、あるいは卑怯なように思われ、村民にも持久防御の幸酸をなめさせてしまったことを、深くお詫びしておきたい。
どうか私のいうことも信じてほしい。私も戦争中から戦後の今日にいたるまで、戦争という巨大な"罪過"のただなかで苦しめられ、痛めつけられてきた人間なのである。ここに述べるのは、私の血の叫びであるといえば、読者諸兄は、やはり眉をひそめられるであろうか。


(編集部=文中引用してある書簡は、すぺて筆者が保管してあるものです)


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潮1971年11月号特集index

■「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(5)



■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(1)
この原稿を書いている今、私の体は痣(あざ)だらけである。私はつい一週間ほど前に、エチオピアから帰ってきたばかりである。
私の心の中には、エチオピアがマスコミのハイライトを浴びているような時に行くのは避けたい、という思いが強かった。しかし、私の遠慮とは別に、そういう時ほどわたしがそういう場所へ行くような機運が不思議と向いてくるのである。
痣はのみいと南京虫に食われた後の引っかき傷、ラバに十時間も乗って被災状況も分からぬ村に行った時に蹴られたり、岩で擦りむいた傷跡などで、実に薄汚い。
エチオピアへ行くことを決意したのは、人道主義の立場から出たことではないのである。私は作家ではあるが、作家が特に人道主義的であらねばならない、などと思ったことの一度もない人間である。ただ、私はここ数年、不思議な偶然から、韓国のハンセン病の村と、マダガスカルの小さな産院とに送る善意のお金、年間約一千万円を集めてそれを確実に送金する事務局の任務を果たす巡り合わせになってしまった。これも、私の家ですませば、印刷代もプリント代も電気代も、一切がいらないから、やっているだけのことである。
しかし、そういう経緯を知っている友人たちは、私にエチオピアの実情も知っておくように配慮してくれたのではないか、と思う。もちろんすべて自費で行ったのだが、そういう友情がなければ、とても個人が入れない土地だったのである。
エチオピアで私が入ったのは、首都のアジス・アベバから五百キロほど北に行ったスリンカというキャンプだが、そこは日本テレビの「愛は地球を救う・二十四時間テレビ」の企画によって集められたお金の一部で運営され、日本人のドクター一人と看護婦さん五人で運営されていた。
何しろ水のない土地である。野っぱらにテントが幾張りかあるだけで、水は土地の女性たちが、大きな水甕(みずがめ)でアルバイトとしてくんで来るのを、買い上げているだけである。ひところのような骨と皮ばかりの、餓死寸前にあるような子供はかなり減ったが、それでも私が夜寝袋で寝ているところから、三十メートルと離れない隔離病棟ならぬ隔離テントの中は、アメーバ赤痢とチフスと思われる重症の下痢患者ばかりである。その中の数人は血まみれの排便をし続けている。
貧しさと苦しみは人間から人間らしさを奪う。被災民たちの一つの特徴は、こうしたドクターや看護婦さんたちにも、大して感謝をしない、ということだ。それどころか、なぜもっと援助をしないか、と文句を言う人までいる。
しかしそれでもなんでもいいのである。もし、私たちの中に、戦争に対する心からの拒否の感情があれば、迷うことはない。テレビ局にお金を寄せた人々も、そこで働いている医療関係者も、ともに言葉ではなく行為でそのことを示したのである。
年月とともに戦争体験が古びて、戦争の恐ろしさがなくなる、としたら、それは戦争というものを受け止める人の心がいいかげんなのだ。私は終戦の年に十三歳にもなっていたから、戦争のことをよく知っているが、私あてにいつもお金を送って下さる人たちのほとんどは、私より若い、従って戦争体験も全くない人たちである。その人たちが、自分が不自由しても不遇な人々に尽くしたい、という素朴な善意を確実に実行してくれているのである。
第二次世界大戦が終わってから四十年が経った。ということは、あの終戦の日に、私たちが日露戦争を思い返すのと、ほぼ同じ長さの年月が経ったということである。いつまでも戦争を語り継ぐだけでもあるまい、と言えば沖縄の方々は怒られると思うが、終戦の年に生まれた子供たちがもう四十歳にもなったのである。もし大量の尊い人間の死を何かの役に立たせようとするならば、それは決して回顧だけに終わっていいものだとは私は思わない。大切なのは、そのことによって、私たちの生き方がいささかでも死者たちによって高められ、たとえほんのわずかでも現在生きている人々の生に役立つことだと思う。私自身は、エチオピアでもある日一日、疥癬(かいせん)だらけの子供たちの爪(つめ)を切ったり、トラコーマや結膜炎の患者に目薬をさす(こういう土地は野戦病院と同じで、だれでも働けるものができることをするのだ)くらいのことしかできない無能力者だが、たった一つ私にできることは、死にかけている人々に命を与えるために働いている人々のことを、世間に知らせることだ。
そういうわけで私は今、太田良博氏の「沖縄戦に“神話”はない」に反論するにもっともふさわしくない心情にいる。沖縄戦そのものは重大なことだが、太田良博氏の主張も、それに反ばくすることも、私の著作も、現在の地球的な状況の中では共(とも)にとるに足りない小さなことになりかけていると感じるからである。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(2)
あいまいな状況
もう数年も前のことである。私は那覇で一人の新聞記者のインタビューを受けた。その方は開口一番、私に、「渡嘉敷島の集団自決命令が軍によって出された、ということは、曽野さんの本によってくつがえされたことになりましたが」
と言った。
「そうでしょうか」
と私は答えた。
「私はただ、集団自殺命令が出されなかった、という証明もできない代わり、確実に出されたという証明もできない、ということを言ってるんですよ。今日にもどこかの洞窟の中から、自決命令書が出て来るかもしれないでしょう。ただ、今までのところは、一切が確実ではない、という曖昧さに私たちが耐えねばならない、ということを、私は言い続けて来ただけなんです」
私が「ある神話の背景」を書いたのは、太田良博氏が何と言われようと、太田氏の執筆責任による「沖縄戦記・鉄の暴風」の中で、赤松氏が沖縄戦の極悪人、それもその罪科が明白な血も涙もない神話的な極悪人として描かれていたことに触発されたからである。人間はそもそも間違えるものだから、赤松氏が、卑怯なところもあり、作戦の間違いもやった指揮官、という程度に太田氏が書いていたなら、正直なところ、赤松のことなど、私の注意をひかなかったと思う。
太田氏は次のような書き方もしたのだ。
「住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入り口に立ちはだかって『住民はこの壕に入るべからず』と厳しく身を構え、住民たちをにらみつけていた」
こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。 
古波蔵村長の言葉
太田氏は、渡嘉敷島の事件について取材したのは、当時の村長であった古波蔵惟好氏と宇久眞成校長であったと今回になって急に言い出したが、私が太田氏に尋ねた時には、確かな記憶がない、と言って宮平栄治氏の名前を挙げたのである。
今にして思うと、私はその時、事件をだれから取材したか記憶がない、と言った太田氏の言葉をもっと善意に解釈していた。つまりそれまで一面識もない村人に、当時太田氏が会って話を聞いたというのなら、確かにその名前をいちいち覚えていないということもあろう、と思ったのだ。しかし今度その取材先が、古波蔵村長だったと知って、私は逆に信じがたい思いである。当時、村の三役というのは、村長と校長と駐在巡査だということを、都会生活しか知らない私は沖縄で教えられたのだが、あれほどの事件を直接体験者であり、しかも村については絶対の責任のある、ナンバー・ワンの村長から聞いておきながら、だれから聞いたか思い出せなかったということがあるのだろうか。
私は生存している主な関係者には、取材の時、すべて例外なく会うように試みたから、宇久校長に会わなかったということは面会を断られたからである。そして今回太田氏が言う集団自決の命令の真相を知っているという古波蔵村長は、私と次のような会話を交わしているのである。
私「安里さん(当時の駐在巡査)を通す以外の形で、軍が直接命令するということはないんですか」
古波蔵氏「ありません」
私「じゃ全部安里さんがなさるんですね」
古波蔵氏「そうです」
私「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」
古波蔵氏「私へ来るんです」
かっこつきの引用
もしこの会話が古波蔵氏の嘘でなければ、赤松大尉が自決命令を出したことは、安里巡査には証言できても、そこにいなかった古波蔵氏には証言できないことになる。ましてや太田氏が書いたように、赤松大尉が壕の入り口に立ちはだかって住民を睨(にら)みつけた、というような場面は、かりに実際にあったとしても、古波蔵氏には証言できない。なぜなら、古波蔵氏は、私に、自分は始終村民と行を共にしていたので、その時軍と関係があったのは安里巡査だけであると言い、私もそのことを当然だと感じたことを今も記憶している。そして、私が安里氏に直接会って聞いた時、安里氏は自決命令がだされたことについては、はっきりと否定したのである。
太田氏は、「私は赤松の言葉を信用しない」というような言い方をするが、そもそも歴史を扱う者は、だれかの言葉は信用し、だれかの言葉は信用しない、などということを大見え切って言うことではないのである。また太田氏は私が赤松氏に会って「『悪人とは思えない』との印象をうけた」といかにも私が書いたような括弧づきの引用をしているが、私は自分の著書を昨日から今までひっくり返して探しているのだが、探し方が悪いのか、そういう言葉がまだ見つからない。私は書いてもいないことを括弧(かっこ)づきで引用されたくはないと思う。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(3)
ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。
太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。
もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 
赤松氏庇う理由ない
太田氏によると、古内蔵村長は直接体験者だというが、自決命令に関してもし古波蔵氏自身が証言したとしたら、それはやはり伝聞証拠なのである。なぜなら、古波蔵氏自身は、赤松大尉から自決命令を直接聞く立場にいなかった、とあの当時私に強調した。古波蔵氏は自決命令はあくまで安里巡査が伝えてくるべきものだったと言い、私もその立場を納得した。そして安里巡査は自決命令が出されたことを否認した、というのがその経緯である。
太田氏は、「『赤松証言』に曽野綾子氏は重点を置いている」と言うが、私は赤松氏とは、ほかの人ほど接触しなかった。こういう場合の当事者が何をいっても弁解だということになることは目に見えているから、私はむしろエネルギーを省きたかったのである。はっきりしておきたいのは、私が赤松氏をかばう理由は何もないということだ。私は赤松氏の親類でもない。取材の時に一度訪問したことはあるが、それ以来遺族との交渉もない。
むしろそういう意味で、太田氏こそ、この人のことは信用できる。この人のことは信用できない、という感情的な決めつけ方をしている。それは次のようである。
「この命令説の真相を知っていると思われる人物が二人いる。一人は、赤松氏の副官である知念少尉であり、一人は赤松氏と住民の間に立って連絡係の役をつとめた駐在巡査の安里喜順氏である。この二人とも、『ある神話の背景』の中で真相を語っているとはおもえない。知念は赤松と共犯者の立場にあり、安里は自決命令を伝えたなどとは言い難いので『自決命令』を否定するほうが有利なのである」
「真相」を知る二人が二人とも否定していても、なお事実は違うのだ、と言いきることが妥当かどうかは別として、太田氏のこの言葉を私は一応受け入れよう。しかしそれなら、私は改めて太田氏に問わねばならない。 
知念少尉の証言
太田氏は『鉄の暴風』の中で、前述の知念氏について次のように書いたのだ。
「日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたが、そのとき赤松大尉は『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」
太田氏にとって知念副官という人物は、どちらの顔がほんとうだったのか。しかし太田氏はご丁寧にも、『鉄の暴風』は決してうそではないのだ、と次のように今回の反論の中でも強調する。
「住民の自決をうながした自決前日の将校会議についての『鉄の暴風』の記述を曽野氏はまったくの虚構としてしりぞけている。(中略)が、あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」
つまり知念副官が赤松隊長の残虐さに慟哭したという場面も伝聞証拠ではないというなら、知念氏の内面の苦悩を書いた場面は特に知念氏自身から聞いて書いたのだろうと思うのだが、その知念氏が「真相を語っているとは思えない」と太田氏は自らいう。太田氏という人は分裂症なのだろうか。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(4)
多数の島民が証言
つい先日、ベトナム戦争の時、一人の市民をピストルで射殺した軍人の記録フィルムをテレビで見た。その軍人の名前ははっかり分かっていて、彼は今アメリカでレストランを経営しているという。
それを撮影したアメリカ人のカメラマンの発言は、しかし実にみごとなものであった。彼は自分がそのような決定的瞬間を撮ることで、その殺した側のベトナム軍人の生涯に、一生重荷を負わせてしまったことに責任を感じていた。カメラマンは、自分もあの場にいたら多分同じ事をしたろうと思うから、という意味のことを言ったのである。
これこそが、本当に人間的な言葉であろう。そしてこの赤松隊の事件を調査した時も、同じようなすばらしい言葉を、私は渡嘉敷島の人々から聞いたのだ。つまり村の青年の中にも、
「総(すべ)て戦争がやったものであえるから、そういうことはなすり合いをしたくないというのは、私の考えです。そういう教育を受けたんだし」
と私に言った人がいたのである。
太田氏は、しきりに自分は伝聞証拠ではなく、体験者からの証言で書いたと言うが、私が現実に、島の人たちから聞いた赤松氏に対する見方を、太田氏は今回も全く無視している。島の人の中には、もちろん私などには会いたくない、という人もいたはずである。しかしその半面、私の『ある神話の背景』を読んで頂ければ分かることだが、決して一人は二人ではない多数の人々が、生死を共にした赤松隊の人々に会うことや、彼らとの戦争中の体験を私に語ることを、少しも拒まなかった。 
著述業者なら盗作
彼らは集団自決のことに関しても、実に正確に、理性的に、あるがままを私に語った。はっきりしないことははっきりしないこととして、その間を見てきたような話でつなげたりはしなかった。しかしそのような人々の発言を、太田氏は全く無視する。それはあまりに失礼な態度ではないのだろうか。
太田氏は私が、渡嘉敷島の事件を証言する渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』と渡嘉敷村が出版した『渡嘉敷島における戦争の様相』の二つの資料のある部分が、太田氏の筆になる沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』からの引き写しとしか思えないことについて「この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである」と書いているが、この三つの資料に、独自の調査によって書かれたとは思えない程度の文章の類似性が見られることはどうしようもない。
もしこれが、私たち著述業者のしたことで、原作者(一番発行日が古いもの)から著作権の侵害として訴えられた場合、当然、盗作と認められる程度のものである。しかしもちろんこれを書いた人たちは、私たちのような専門家ではないし、悪意や自分の利益のためにしたことではないことも明らかなのだから、私も少しも批難するつもりはない。 
上陸は3月27日
しかし私は再び太田氏に問いたい。米軍が島に上陸した日、といえばそれはおそらく島民にとって、忘れようとしても忘れられない日であったろうが、その日を三つの資料が三つとも三月二十六日とまちがって記載するということも自然なのだろうか。初め私はこの事実に気がついた時、上陸が二十六日の夜中で、もう二十七日になっていても分からないような時刻ではないか、と思った。しかし調べてみると、上陸は三月二十七日の、午前九時〇八分から四十三分の間、つまりまぎれもない朝なのである。そのような大事な日時というものは、独自の調査をして行けば(かりに一つが、思い違いや書き間違いをしたとしても)三つがそろって誤記するということはほとんどあり得ないものなのである。
私はもはや一々太田氏の内容に反論する気になれない。初めに言ったように、私はだれに限らず、だれかが正しくて、そうでない人は、徹底して悪いのだ、という論理をただの一度もとったことがないのである。赤松氏に作戦上の問題がない、ということもない。住民も動転していた。それは私たち日本人皆が持っていた当時の判断の形式であった。
ただ、ある人間だけをよしとし、反対の立場に立つ人は悪人だとする判断は--もちろんそういう判断を好む人がいても、私はそれに対して何も言うつもりはないが--それは、そのひとはとうてい大人の判断をもって人間を見ることのできない性格なのだ、とひそかに思うだけである。なぜなら、自分がもしその立場に置かれたら、ひょっとして自分も同じことをするのではないか、と思える人と思えない人とは、善悪を超えて異人種だということを、私も長い年月の間に分かるようになったからである。
■「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(5)
沖縄中心の考え方
私は今回、こういう企画が行われて、私の本がたとえ一冊でも多くの方々の眼にふれるようになったことを喜んでいる。安い文庫本のことだから、売れると印税が儲かる、ということではない。
数年前、『ある神話の背景』が出てしばらくした頃、私は知人にあげるために一緒に那覇市内の本屋に行って、この本を買おうとしたことがあった。しかし、本屋にはこの本がないばかりでなく、私が当の著者であることを知らない店員さんは、入荷の予定もない、とそっけなかった。知人はその本屋が「思想的に特徴のある本屋ですからね。曽野さんの本は置かないのかもしれませんね」という意味のことを言ったが、私は穏やかに前金を払って自分の文庫を取ってもらうように頼んで来たことがある。
私はかねがね、沖縄という土地が、日本のさまざまな思想から隔絶され、特に沖縄にとって口あたりの苦いものはかなり意図的に排除される傾向にあるという印象を持っていた。その結果、沖縄は、本土に比べれば、一種の全体主義的に統一された思想だけが提示される閉鎖社会だなと思うことが度々あった。
もしそうとすれば、これは危険な状況であった。沖縄の二つの新聞が心を合わせれば(あるいは特にあわせなくとも、読者の好みに合いそうな世論を保って行こうとすれば)それほど無理をしなくても世論に大きな指導力を持つ。そして市民は知らず知らずのうちに、統一された見解しかあまり眼にふれる機会がないようにさせられる。もし私が沖縄に住むなら、私は沖縄の新聞と共に必ず全国紙を一紙取るだろう、と私は思った。そうでないと、沖縄中心の物の考え方が次第に助長されるようになる。世界の中の日本、日本の中の沖縄あるいは東京、というバランス感覚がなくなるのである。 
「日の丸」と「君が代」
特に沖縄では、学校の先生の指導で、国旗も掲揚せず、一応国歌と認定されている君が代も歌わない学校が多いので、生徒たちの中には歌えない者も多いと聞かされた時には、特にその感を深くした。
日の丸と君が代はいやだ、という人は沖縄でなくてもいる。最近、社会党は君が代や日の丸を認めないという条項を綱領から外したが、党員の中にはそれを不満とする人も少なくないという。もし今の国旗と国歌に反対なら、それをできるだけ早く別のデザインの国旗と、別の歌である国歌に改変するように動くべきなのだ。しかし現在、地球上の国家で、自国の国歌や国旗に対して尊敬の態度を教えない国など、あまり聞いたことがない。
ましてや沖縄には基地問題がある。もしアメリカの軍人たちに、ここは主権が日本にある土地であり、基地があることは不自然だということを示そうとするなら、私だったら、ことあるごとに、国歌を歌い、、国旗をあげてそれをアメリカに対する一種の闘争の方法、意志の表示とするだろう。日の丸も揚がらず、国歌も聞こえない土地でどうしてここが日本だということを簡単明瞭に示すのだろう。
しかし沖縄では、一部の人たちが日の丸も君が代もだめだ、となると、子供たちが、現在国歌と認められている歌さえも歌えないような、地球的に見てもおかしな教育がまかりと追っているのだとしたら、このような偏りは、本土の学校では考えられないことである。なぜなら、社会には、常に違った考えの人がいるから、国民の選挙によって選出された議会政治の決定したことに、この次の選挙までは従う、という民主主義の原則を受け入れるほか、方法がないからである。 
ほしい冷静な態度
前にも書いたように、私の本など、実はどうでもいい。しかし大切なのは、沖縄が、もっと強烈な個性とその対立に、堂々としかも冷静に耐え、切磋琢磨し、しかし対立する思想こそ世の中を安全に動かす元だと評価する習慣を持つことである。今までのところ沖縄は失礼ながらそうではなかった。少しでも沖縄に対して批判的なものの考え方をする人は、つまり平和の敵・沖縄の敵だ、と考えるような単純さが、むしろ戦争を知っている年長の世代に多かった。
その世代が今は少しずつ、替わりかけている、と私は実感するようになっている。
だからと言って、沖縄戦の記憶が古びたのでもなく、意味を失ったのでもない。むしろ沖縄戦を直接体験しない若い世代は、沖縄の戦いを、個人やその家族の歴史または知的資産とする範囲から脱して、今はもう未来に向かって普遍化する時代に来ている。反戦が、抗議と反対運動に集約されていた時代はもう古いと私は思っている。何せ、戦いの体験を全く持たない人たちがもう四十歳なのだ。
私は、このごろ、反戦や平和というものは、口で言うものではなく、最低限黙ってそのために労働か金かをさし出すものだ、ということをしみじみ教えられた。もっと偉い人はもっと大きな犠牲を払っている。そのようなことを私にも思わせる遠い過去には、私にも私なりの生涯を決定するほどの大きな戦争の体験があったからである。
(おわり)